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(2)会社の厳しい経営環境

ホームに降り立つとすぐに地下鉄の車両が大きな音を残しながら風間の前に滑り込んできた。風間は車両に乗り込んだ。あっという間に車両は四谷三丁目、四ツ谷の駅を通り過ぎ赤坂見附の駅に到着した。風間が長年通った会社は赤坂見附の駅から歩いて10分位の所にある古びたビルの中にあった。周辺のおしゃれなビルに挟まれて肩身の狭そうな気配で、ひっそりと立っている小さなビルだった。
風間はもう少しで60歳になるが、何とこの会社に大学時代のアルバイトの時から40年近くも通っている。会社は今でこそ様々なメディア向けの企画・制作等を手掛けているが、もともと風間がアルバイトしていた時には正社員など2,3人しかおらず、他のメンバーはみんな風間みたいな学生アルバイトばかりが出入りしている小さなTV、ラジオ番組の制作下請け会社だった。その頃の会社の仕事と言えば、細々とTV番組のFDを派遣したりラジオ番組のミニ中継スタッフを派遣したりする仕事が主なものだった。その後、時代が様々に変化し風間たちの現場にもBS放送、CS放送、DVD制作と新たな活動場所が増えるに連れて会社自体もそれなりに大きくなっていた。勿論60歳近くの風間は現場に立つことは随分前から無くなっていて、今は完全なスケジュール管理や予算管理等と言った裏方の仕事に専念していた。それでも風間がこの会社に何となく残ってきたのは今の代表者が当時からお世話になっている人物であったことと、遠い昔に制作の現場で共に汗を流した仲間たちの中から放送局の経営に携わっている人物が少しばかり出ていたためだった。向こうの方はどう思っているかは知らないが、風間はそんな昔からの人間関係をそれなりに大切にしてきたつもりだ。会社の仕事が思うように入って来ない時など、風間は昔の人間関係を頼りにコンタクトを取り小さな仕事を何本か会社にもたらしていた。勿論、露骨にそんな風間の活動を今の代表者である高嶋さんは口に出して望むことなどなかった。恐らくそんな事があったとしたら風間はとっくにこの会社から姿を消していただろう。それでも実際風間の存在が小さくなった今でも、その存在があることで何本かの仕事に繋がっていることだけは確かだった。40年以上前にちっぽけな制作請負会社としてスタートして以来今日に至るまで、何度となく会社存続が危ぶまれることがあった。その時に必死になってその危機を乗り越えるために頑張っていたのが今の代表者であり、仕事が順調な時には会社に多くの人が集まり仕事に行き詰ると会社から1人また1人と人が消えていった。そして気が付くと会社創立当時の少ないメンバーの内、そんな代表者高嶋さんに今日まで付いて来ていたのは風間だけだった。少し前から風間はそんな思い入れ十分な会社にいるのも、そろそろ潮時だと思うようになっていた。そして風間は60歳になるのを区切りに退職したいと高嶋さんに伝えていた。高嶋さんは《ご苦労様でした。風間さんの好きにしたら良いですよ》と短い言葉で風間の申し出を快く受け入れてくれた。もう40年近く一緒に共有し続けてきた1分1秒の積み重ねにより、高嶋さんと風間の会話には無駄な言葉は削ぎ落されていた。簡潔な言葉の中に互いの想い、信頼感といったエキスが十二分に溶け込んでいた。ところが、いよいよ風間が退職をする予定の60歳の誕生日が近づくにつれて、会社は創立以来の厳しい運営状況に追い込まれていた。気掛かりと言えば大いに気掛かりなことだった。風間は淡々といつも通り裏方の仕事をこなしていたが、目の前を通り過ぎる伝票の数字は日に日に会社の厳しい経営状況を物語っていた。勿論裏方に回る前まで制作現場にしかいたことのない風間には、詳細な経営内容については知る由もなかった。それでも見慣れた高嶋さんの顔つきも幾分疲労感に包まれているようにさえ思える。その高嶋さんから急な会議招集が今日8月17日の午後にかかっていた。

更新日:2013-12-03 09:39:43

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