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(10)人生はグラフィティ

暦は何年前から始まっただろうクールビズの時期になり、街行くサラリーマンたちがネクタイを外す6月になっていた。ネクタイなど締めたことなどない風間にとっては、毎日がクールビズだ。風間だけでなく彼の周囲の仲間たちは、ほとんど1年中がクールビズだ。

それでも明らかに街の雰囲気が少しだけ解放感に満たされるような気がする。特に紺のスーツ姿に自由を押し込められていた新入社員たちが、ネクタイを外し自由を少しだけ楽しんでいるように感じられる。明らかに風間の考え過ぎだろうが、そう感じてしまうのだから仕方がない。

4月からそのサラリーマンたちがネクタイを外し始めた6月になるまでに、高嶋さんの会社の様子は大きく変動し正しく様変わりしていた。風間はもう赤坂見附の駅を利用していない。今、毎日利用している駅は九段下だ。

歩く通りも外堀通りから内堀通りに変わっていた。そして年甲斐もなく朝早くから夜遅くまで、毎日地方放送局の支局の中にある事務所に詰めていた。高嶋さんは自身が長年関わってきた放送制作会社の責任者を退いていた。

その後任には予定通りキー局のコンプライアンス統括部長が着任していた。会社には高嶋さん時代からの多くの若いスタッフが残った。高嶋さんは山重君と彼が所属している地方放送局が強く要請してきた企画を受け入れた。

高嶋さんは内堀通り沿いにある地方放送局の東京支局内に新しい会社《制作集団グラフィティ》を立ち上げた。勿論その会社に風間は毎日通っている。風間だけではない吉井さんもスナック《グラフィティ》の経営を友人に任せて、毎日朝早くから夜遅くまで会社に張り付いていた。

高嶋さん、吉井さん、そして風間と3人が揃っていた。それ以外に《制作集団グラフィティ》には3人の若者がいた。勿論その若者たちと言えば花村君と平井君、そして柏木君の3人だった。たった6人だけの小さな制作会社でスタートした。

高嶋さんが前の会社を去る時に、一緒に行動を共にしたいと申し出た若いスタッフも大勢いた。だが高嶋さんはそれを認めなかった。高嶋さんは去った後の会社が心配だった。40年近くも会社を存続させてきた高嶋さんは、例え自身がその会社を離れたとしても様々な思い入れがあって当たり前だった。

多くの制作現場に人を派遣していた会社が、代表者の変更くらいで派遣業務内容に支障を期してしまったら派遣先に申し訳ないと考えていた。だからこそ一緒に行動を共にしたいと申し出た若いスタッフたちにも、その責任を全うしてもらうためにも会社をしっかりと支えていって欲しいと願っていた。

それと始まったばかりの《制作集団グラフィティ》に、若い多くのスタッフを現段階で責任を持って預かることが出来ないことも承知していた。だから若いスタッフたちには、今いる場所で精一杯良い仕事にチャレンジして欲しいと考えた。

そしてその先でどうしても納得が出来ない仕事だと感じることが多くなったら、その時点で自分の所に相談に来るように釘を刺した。少なくとも1年間は、現状で自身の力を磨いて欲しいと言い残した。若いスタッフたちの多くは、不承不承高嶋さんの話に納得した。

そんな根回しがあったこともあり高嶋さんが去った後の会社も、たちまち業務内容にこれといった支障も出すことなく順調に走り続けていた。

新しく起ち上げたばかりの《制作集団グラフィティ》の事務所内にある事務器具、事務用品などはすべて中古の品物だった。電話機、コピー機、ファックス、デスク、チェア、ゴミ箱など、それこそ真新しい製品など何一つ無かった。

唯一皆のスケジュールが書き込まれている真新しいホワイト・ボードの白さだけが、浮き上がって見えていた。ところがその白さが目立つホワイト・ボードのスケジュール表には、赤、青、黒色のマジックで高嶋さん、吉井さん、花村君、平井君、柏木君、そして風間たち全員の名前がびっしりと書き込まれていた。

各自の名前の前後には現在制作中のラジオ番組名、TVドキュメンタリー番組名が複数書き込まれていた。最初は事務所の広さだけがやけに目についたが、最近では常に多くの関係者たちが事務所内に賑やかに出入りしていた。そしてその中で一番多く出入りしていたのが、例の山重君の会社の若い営業マン加藤君だった。

更新日:2017-01-31 08:59:53

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