• 30 / 58 ページ

1.2 私は誰


---





 気になり続けるのは、ずっと、自分の過去だった。








「ねぇ」


 どうしたら、思い出せるのだろう。


「おい!」



「大丈夫かーい?」



 どうしたら…






 おもむろに、頬につねられたような痛みが走る。


「ひはっ!?」

「ねぇ、さっきから何ぼーっとしてるのよ」


 そうだった。

 出版社に来て、はや1週間、仕事にもなれ、理音はこの会社の酷すぎた経営状況の改善に乗り出し、またweb新聞は海里のおかげで大好評らしい。そんな中私は日々、スクラップを作り続けていた。膨大な山になっていた、あの天堂グループに関する記事、スクラップ帳はいつしか15冊ほどになり、私の作業しているテーブルの、空いた隙間に置いている。

 そんなところで私はぼーっとしていたらしい。私が意識を覚醒させたことを確認し頬から手を話した理音は、呆れたような口ぶりで、私に休憩に行こうという。私は首を横に振った。

「一人で、外の空気吸ってくる」


「あら、そう…」


 理音は心配しているのだ。よくわかっていた。でも、ここは一人になって冷静になりたかった。







 自分の正体が、分からなくなる日々で、私は理音に何か言えることもなく、言うすべもなく、ただ悶々と一人で考え続けている。


 扉を開け、ビルのエレベーターが開く。Rのボタンを押すと、その古びたエレベーターは私を屋上に連れていく。なぜか3階と屋上を、このRK出版社の持っている階のようで。私は最近ここで一人風にあたることが多くなっている。

「はぁ」

 盛大にため息をついてみるのはいいが、風が吹き、私は少しだけ顔をしかめた。髪の毛が視界に入り、口にも入るので気持ちがよくない。
 とはいえど、風にこれだけ吹かれれば、悶々と考えるという意識はなくなるもの。私はただ風に向かって大きく息を吸って、跳ね返すように鬱憤を吐き出した。


「私は!だ、れ、な、のーーーーー!!!!!???」





「君は君だよ」


 予期せぬ返答に私はあわてて屋上の扉のほうを振り向く、そこには海里の姿だけで、思わず安堵のため息が漏れる。

「理音を避けてる気がするけど、どうかしたの?」

「…そういう、わけではないんだけれど」

 人一倍、他人の気持ちを察してしまう彼女のそばにいるのが忍びなかったのは事実で、私は素直に、そうだね、と認め、そのままコンクリートの上に座り込んだ。お尻がひんやりして、意識がはっきりしてくる。

「で。君は自分の正体が分からなくてずっと考えてるってことか、この一週間」

 ズバリ言いあてられ、私は何も付け加えることは出来ず、ただ頷いた。すると、馬鹿だね、と返事が返ってくるので、むっとして彼を睨みつけた。しかし、彼は呆れた顔をするわけでもなく、真剣な表情のまま、そう口にしていた。

「…」

「ちなみに俺の本名は海里じゃない。中国人の名前で海里なんていないからな。でも、俺は本名を覚えていないんだ」

「…え?」

「それでも俺は俺だ。組織に入る際、日本に対するスパイ専門の人間として教育された俺は、リーシャ以外に友人、家族と呼べるものはいないし、本名は物心つく頃から海里と呼ばれていたから忘れた」


 海里はそういうと、私の横に立ち、柵に腕をかけ、鬱陶しそうに自分の前髪をかきあげるしぐさをした。










「俺は、リーシャにあうまで、愛する、ということすら知らなかったからな…」







 私は、なんて馬鹿なのだろう。
 ひとりでにぼやけていく視界に、私は成す術もなく、膝を抱え風にされるがままになっていた。

 どうして、私は悩んでいるんだろう。
 母親の記憶があるだけ、いいじゃないか。

 自分の正体、といえるほどのものがあるのだからいいじゃないか。

 子供のころからなるべくして作られた彼に比べたら…私は…


 泣いている私に気づき、海里があわてている。

「ふっ…」

「なんだよ」

「ごめん、でも、有難う」



 くよくよしていても仕方がなかった。


「私は、私。その通りだよ」

「ようやくわかったか」

「君、いい人だね」

「勿論」


 

 海里はさも当然、といったように笑みを浮かべたまま歩き始めた。

「どこ行くの?」

「空気吸いに来ただけだし。君ももう戻ったほうがいい」

「そうだね」


 海里がいなくなり、屋上には私一人になった。







「戻るか…」









更新日:2013-03-11 18:34:50

  • Twitter
  • LINE
  • Facebook