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新記録

 オレは自分で言うのもなんだが、将来を嘱望された有名なスポーツ選手だ。今までも、大きな大会で数々の新記録を打ち立ててきた。
 子どもの頃は、ただ足が速いだけで、何か運動をしていた訳ではなかったが、近所の子どもたちと駆けっこや鬼ごっこをしても、誰もオレには追いつけなかった。

 オレの才能を見出したのは、中学時代の運動部の顧問であった。
嫌がるオレを上手くおだてて、やる気を引き出し、この世界に導いてくれたのには、感謝している。負けず嫌いであったオレの性格を見抜いていたのだろう。

 次々と大きな大会に出場し、その大会の記録を塗り替えてきた。
やがて、マスコミにも注目される様なり、オレの活躍を報じられる日も多くなってきた。
 大会に出場するたびに、新記録を樹立し続けるオレの特番が組まれたり、雑誌の表紙を飾ったりもした。
 この国でオレの事を知らない人間はいないだろうと言うくらいの注目ぶりであった。

 有名になるにつれ、練習をする為の自由な時間が徐々に減って行った。その反面、周囲からの期待は大きくなっていく。決して、期待に押しつぶされるつもりもないし、プレッシャーに弱いわけでもないが、練習時間が激減してしまっては話は別だ。

 次第に結果を出すのが難しくなってきたのである。

 その様な状況を知ってか知らずか、世間では、新記録を樹立するのが、もはや、当然だろうと言う空気も感じられる様になってきた。
 更に、大きな大会の直前には、新記録を打ち立てなければ許されないと言う風潮もあった。

 そうなると、なかなか記録は延びないもので、かろうじて1位になったとしても、新記録は樹立出来ず、充分な練習時間が取れないこの状況と、結果の出せない自分自信に対し、また、その結果自体にも、憤りを覚える時もあったのだ。


 そんな時、世界中のスポーツ選手が憧れるスポーツの世界大会がこの国で開催されることになり、その大会へのオレの出場が決まったのだ。
 世間は、この大会でのオレの新記録樹立を期待している。
 当然、オレ自身もそのつもりではあるが、練習時間が取れないままでは、良い結果も出ないと言うものである。

 マスコミの取材やテレビ番組の出演などで、練習の時間が取れないまま、時間だけが過ぎていく毎日の中で、半ば自暴自棄になっていたのかもしれない。

 今までは、全くと言っていいほど、興味のなかった、裏の世界で出回っている薬についての噂に、心踊らされるオレの姿があった。
 マスコミ関係者から聞いた噂ではあったが、妙に引きつけられたのだ。
 オレは、インターネットなどで、この噂の薬について、調べるにつれ、いくつかのリスクがある事も解ってきたが、予想以上に興味を惹かれる内容であった。

 その内容はこうだ。

①あらゆるドーピング検査でも検出されない筋肉増強剤の様な薬である。
②良い結果を出しているほとんどのスポーツ選手は、秘密裏にその薬を服用していたらしい。
③その薬を服用すると選手生命が縮むらしい。
④薬を使うのは、結果を出したい日の朝に服用しなければならない。
などだ。

 どうやら、その薬はある科学者が、結果を出せずに悩んでいるスポーツ選手の為に開発した薬であるらしい。
 現在の法の下では臨床試験も済んでいないし、もちろん、認可も受けてない不法の薬物なのだ。

 早速、オレの考え付くあらゆる手段を講じて、匿名でその薬を入手する事にした。

 オレは、その科学者本人と連絡することに成功し、指定されたバーでその科学者が来るのを待った。


 約束の時間を1時間ほど過ぎても姿を見せない科学者に対し、少し苛立ちを覚えたが、冷やかしだったのだと、言い聞かせ、席を立とうとしたオレに、背中合わせの後ろの席に座っていた男が声を掛けてきた。

「おや、何処に行かれるのですか?この薬が必要なのではないですか?」
「もしや、アンタが例の薬を開発した科学者なのか!?いったい、いつから、そこにいた!?」
オレは不意に掛けられた言葉に驚きを隠せずに答えた。

 「貴方が、この薬を欲しがっている方ですね…。申し遅れました。私、蓮羅(ハスラ)と申します。例の薬を開発したのは私です。…私は貴方がこのバーに入って来る前から、この席にいましたよ。」
薄暗い店内で、しかも、明りの届かない席であった為、その男の表情を確認するのは難しかったが、今までに聞いたことのないような落ち着いた重量感のある低い声であった。

更新日:2013-07-30 20:11:36

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