• 7 / 35 ページ

昭和の嫁いびり

さて、結婚と言えば付きものの「嫁いびり」のお話です。


最近は核家族が多いので、あまり見かけなくなりましたが、私が結婚した当時はまだまだ根強く残るものでした。


私の夫の母、つまり姑は、神奈川のあるムラで3番目に大きな家の跡取り娘でした。

高島家の先祖は宮大工を務める由緒ある家柄で、敷地の幅が6kmもある土地の大事主だったそうです。

姑は後妻の一人娘でしたが、先妻の娘3人が早世してしまったために、跡取り娘として育てられたそうです。

それでも生後半年で父親が亡くなり、4歳の時にお家騒動があり、家を追われて苦労して育ったと涙ながらに語っていました。

昭和の高度成長の時代に、まるで時代劇の様なストーリーでした。

姑には私の夫の13歳上にも息子がいました。

これが超のつく秀才で、東大の医学部をトップで卒業し、海軍の医学学校も主席で卒業、お祝いに「恩賜の短剣」を天皇陛下から賜ったといいます。そして27歳で東大医学部の助教授に。

この自慢の息子が、結核に倒れ、30歳で他界してしまいました。


姑は口を開くといつもこの話しをしていた。

子育てが全ての時代の女性にとって、姑の悲しみは計り知れないものがあったに違い有りません。だから、何の話しをしていても、その無念さを口に出さないと気がすまないという感じでした。


そこに残された私の夫。
兄が他界したときはまだ高校生でしたが、その遺志を継ぐように医師になりました。

夫は姑にとって、本当にかけがえのない、命がけで守ってきた存在だったと思います。



私がお嫁に行ったとき、姑は85歳、舅は94歳という高齢でした。

ですから生活は、私の育った家庭とは全然違いました。

炊飯器はなくお釜でご飯を炊き、薪で風呂を焚いていました。

洗濯板の使い方も教わりました。

煮物は余り得意で無かったので、随分姑に教わりました。

お医者さんと結婚したのに、ちょっとこれは何?という生活。

今考えると結構楽しかったのですが、当時は周りの心配する声を聞くと自分も不安になっていきました。

こんな生活をさせるなんて、夫は私を本当に愛しているのだろうか?
とまで思い詰めました。



昭和の時代に核家族で一人っ子で育った私は、姑に仕えるという姿勢が出来ていなかったので、時々姑の話に自分の意見を言うことがありました。

でも、それは「口答え」するという、明治の考え方からすると許せない態度なのです。

仕事を終えて帰宅した夫を捕まえては、姑は私のそういう気に入らない所行を話しました。

時には、夫も「お袋に口答えするな!」と声を荒げる事がありました。

すると、姑が後ろから 
「殴れ!殴れ!!」
とけしかけたのでビックリしたこともあります。


万事がそんな調子。


我慢出来るわけがありません。


ある日夫が私に手を挙げたのをきっかけに、さっさと実家に連絡して助けてもらい、しかも母の知り合いの病院に駆け込んで、乱暴を受けた証拠のカルテを作ったりしました。

まるでDV対策ですね。


そうしたら、意外な事態がやってきたのです。






更新日:2012-11-03 13:07:24

  • Twitter
  • LINE
  • Facebook