- 5 / 35 ページ
障がい児
私には難聴障がいを持つ息子がいます。
3人兄弟の末っ子で、とてもやんちゃな子供でした。
初めて喋った言葉が「こわしちゃった・・・。」(-_-;)
高島家のデストロイヤーと呼ばれるほど、好奇心からか何でも良く壊していました。
3歳になると、5歳のお姉ちゃんの通う幼稚園に入りましたが、どうもお喋りがおかしいと気づきました。
発音がキチンと出来ないのです。
何かゴニョゴニョ喋るのですが、はっきり発音出来ていません。
でも、こちらの言うことは理解していますし、集団で遊んでいても特に問題は見られませんでした。
いろんな人に相談しましたが、
末っ子だからお母さんが赤ちゃん言葉で話しかけるんじゃないの?
と言われるだけで、特に特別なアドバイスはありませんでした。
夫が医師だったので、大丈夫だろうという周りの配慮もあったのでしょう。
でも、その問題点は、小学校の就学時健診で指摘されました。
すぐに言語障害がある可能性を調べるため、専門の施設を紹介されたのです。
やっぱり・・・という思いと、一体どこに問題があるのだろう?という不安とでいっぱいになりながら、息子と2人で療護教育センターという所に向かいました。
そこでは、IQを始め様々な観点から障がいが何なのかを調べます。
ガラス越しに色んな検査を受ける息子を見ていると、多少緊張している様子が伺えます。
これからこの子にどんな人生が待っているのかと思うと、不安に押し潰されそうで、とても悲しい気持ちになりました。
やがて一通りの検査が終わると、その結果を知らされます。
原因ははっきり解らないが、言語障害があることは確かなので、地元の普通学級に入学しながら、もう一つ「特別指導教室」という学校にも通うようにと案内されました。
特別指導教室とは、養護学級に入るほどではないが、普通学級だけでは教育が不十分になる子供を、それぞれの専門の教師が訓練するところです。
息子は週に1回、2時限を、特別指導教室で過ごす事になりました。
やがて5月になり、息子を連れて特別指導教室に行くと、とても明るくて優しい先生が息子の担当として待っていてくださいました。
そしてここで初めて、息子が難聴障がいを持っていることが判明したのです。
聞こえていないから、きちんと発音出来ないのだと言われ、ようやくホッとしたのを覚えています。
でも、難聴の発見が遅かったので、難聴児の教育をスタートするには遅すぎの感がありました。
まず、補聴器を着ける事が出来るかが問題でした。
聞こえない状態に慣れている子供は、補聴器で外界の音が入ってくるととてもうるさく感じて着けたがらない事もあるそうです。
他にも難聴児を育てる上での注意事項は山積みでした。
息子本人はもちろん、私たち親や家族も今までとは違う生活をして行かなくてはならないのです。
そして意外なことに、夫は息子の障がいを認めたがりませんでした。
病気だから治るだろう、と一時は息子をあちこちの病院に連れて行き、手術が出来ないかを打診していました。
結局、手術で聴力が戻る可能性は10%にも満たないと解るまで、本当に手当たり次第の病院に出かけて行っては、疲弊して帰ってきたものです。
小さな息子は父親の思いを一心に受け止めて、我慢してたくさんの検査を受けて歩いていたのがとても不憫でした。
一方私は、息子に難聴障がいがあることは、比較的すんなりと受け入れられました。
そして、障がいを抱えながら生きていく術を学んで行かせなくてはと覚悟を決めていました。
母親はいざとなると根性が座るものですね。
3人兄弟の末っ子で、とてもやんちゃな子供でした。
初めて喋った言葉が「こわしちゃった・・・。」(-_-;)
高島家のデストロイヤーと呼ばれるほど、好奇心からか何でも良く壊していました。
3歳になると、5歳のお姉ちゃんの通う幼稚園に入りましたが、どうもお喋りがおかしいと気づきました。
発音がキチンと出来ないのです。
何かゴニョゴニョ喋るのですが、はっきり発音出来ていません。
でも、こちらの言うことは理解していますし、集団で遊んでいても特に問題は見られませんでした。
いろんな人に相談しましたが、
末っ子だからお母さんが赤ちゃん言葉で話しかけるんじゃないの?
と言われるだけで、特に特別なアドバイスはありませんでした。
夫が医師だったので、大丈夫だろうという周りの配慮もあったのでしょう。
でも、その問題点は、小学校の就学時健診で指摘されました。
すぐに言語障害がある可能性を調べるため、専門の施設を紹介されたのです。
やっぱり・・・という思いと、一体どこに問題があるのだろう?という不安とでいっぱいになりながら、息子と2人で療護教育センターという所に向かいました。
そこでは、IQを始め様々な観点から障がいが何なのかを調べます。
ガラス越しに色んな検査を受ける息子を見ていると、多少緊張している様子が伺えます。
これからこの子にどんな人生が待っているのかと思うと、不安に押し潰されそうで、とても悲しい気持ちになりました。
やがて一通りの検査が終わると、その結果を知らされます。
原因ははっきり解らないが、言語障害があることは確かなので、地元の普通学級に入学しながら、もう一つ「特別指導教室」という学校にも通うようにと案内されました。
特別指導教室とは、養護学級に入るほどではないが、普通学級だけでは教育が不十分になる子供を、それぞれの専門の教師が訓練するところです。
息子は週に1回、2時限を、特別指導教室で過ごす事になりました。
やがて5月になり、息子を連れて特別指導教室に行くと、とても明るくて優しい先生が息子の担当として待っていてくださいました。
そしてここで初めて、息子が難聴障がいを持っていることが判明したのです。
聞こえていないから、きちんと発音出来ないのだと言われ、ようやくホッとしたのを覚えています。
でも、難聴の発見が遅かったので、難聴児の教育をスタートするには遅すぎの感がありました。
まず、補聴器を着ける事が出来るかが問題でした。
聞こえない状態に慣れている子供は、補聴器で外界の音が入ってくるととてもうるさく感じて着けたがらない事もあるそうです。
他にも難聴児を育てる上での注意事項は山積みでした。
息子本人はもちろん、私たち親や家族も今までとは違う生活をして行かなくてはならないのです。
そして意外なことに、夫は息子の障がいを認めたがりませんでした。
病気だから治るだろう、と一時は息子をあちこちの病院に連れて行き、手術が出来ないかを打診していました。
結局、手術で聴力が戻る可能性は10%にも満たないと解るまで、本当に手当たり次第の病院に出かけて行っては、疲弊して帰ってきたものです。
小さな息子は父親の思いを一心に受け止めて、我慢してたくさんの検査を受けて歩いていたのがとても不憫でした。
一方私は、息子に難聴障がいがあることは、比較的すんなりと受け入れられました。
そして、障がいを抱えながら生きていく術を学んで行かせなくてはと覚悟を決めていました。
母親はいざとなると根性が座るものですね。
更新日:2012-10-30 23:36:07