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時過ぎて

 桜が舞う。龍王の池の東には、見事な八重桜があって、それが毎年素晴らしい花を咲かせるのだ。二本の樹がお互いに絡み合うようにねじれて途中からひとつになっているので、夫婦桜と呼ばれていた。その花は、水面に反射されて、まるで花が二倍咲いたかのように華やかな様相を見せた。このピンクには見覚えがある、と摩利子は思った。ああそうだ、ゆりさんを覆っているあのオーラの色だ。明るく華やかな薔薇色。だが、摩利子はしばらくこの華やかな薔薇色の輝きを見ていなかった。

 大きな転機となったのは、例の『龍の媾合(みとあたい)』から三ヶ月くらい経った冬の日のことだった。摩利子と一は二人でランチタイムの片付けをしていた。突然、ゆりが店に入って来た。

 様子がおかしいのは一目で分かった。青ざめてカウンターに座ると震えて泣き出した。摩利子は一と顔を見合わせるとすぐにゆりの側に来て肩に手を置いて訊いた。
「どうしたの。ゆりさん。出雲の産婦人科に行って来たんでしょう。何かあったの?」

「人間じゃ、ない……」
その時に、摩利子の前にゆりの忘れられない光景が『ヴィジョン』として現れた。

 それは産婦人科の診察室だった。超音波エコーの機械のディスプレイを医者がゆりの方に向ける。説明しながらお腹の中にいる胎児を見せる。『それ』は小さくてはじめはよく形がわからなかったが、カメラが動くと、不意に横からはっきりとした形をみせた。見慣れた人間の胎児の形ではなかった。タツノオトシゴに長いしっぽがついたみたいな……。

 ゆりは自分の目が信じられなかったが、それは医者も同じだった。何かの間違いではないかと胎内カメラを動かした上、印刷ボタンを押したがその途端、超音波エコーが煙をあげて壊れてしまった。医者は首を傾げたがエコーが壊れてはどうしようもないので、一週間くらいしたら再び予約を取り直してくれるように頼んで、その日の診察を終えた。

 だが、ゆりにはわかっていた。エコーが壊れたのは偶然ではない。お腹の中にいる『それ』は、写真を撮らせたくなかったのだ。

 ゆりはバスが樋水村に着くまでじっと涙をこらえていた。だが、『たかはし』の前まで来たら、もう我慢ができなくなった。どうしていいかわからなかった。

「どうして? 本当にどうしてこんなことになったのかわからない。でも、きっと朗さんには信じてもらえない。どうしたらいい?」

 号泣するゆりを摩利子はただ抱きしめた。一は摩利子に目配せするとそっと出て行き、しばらくすると朗を連れて戻って来た。朗は摩利子に頷いて代わってもらうと、黙ってゆりを抱きしめた。ゆりは驚いたが朗はゆりを離さなかった。そのままゆりが落ち着くまでじっとゆりの背中をなでていた。

「心配しなくていい。君を疑ったりなんかしていない。あれはあの『龍の媾合』でおこったんだ」

更新日:2012-10-06 06:11:38

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