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 半月の晩だった。日中の暑さが去り、屋根の上で涼みながらふと、ムスタディオが言った。

「なあ、ありがとう」

「何がだ」

 毎度食いに来ていた昼食の事か。最近は来ないが、いい仕事口でも見つかったのか。と知らぬ振りで聞いてやる。
 そうではなくて、ただ単に、あまり食べていないのだと、解っていたが。

「それもあるけどよ。ほら、あの時、ガキの頃。親父にお前、『こいつすごく手先が器用なんだ、おじさん』って、言ってくれたろ?だから俺、集団工場に行かされなくて済んだんだから」

 集団工場。表向きは身寄りのない子供を引き取る孤児院のようなものだったが、実際は、ただの労働力として扱われ、子供といえど、食べる物もろくに当たらず、休む間もなく働かされ、成人し、工場を出られるまで生きながらえる者は殆どいない場所だった。

「けど、俺のことよく知りもしねえのに、よく言ったよな。それも、お前が」

 確証のない事を俺があまり口にしないのを知っているムスタディオは、そう言って可笑しそうに笑った。

 なんで?と問われるのに、知らん、そんな事あったか。と嘯く。

 たいして泳げもしないのに、ラファを助けようとしたからだ。結局、俺が二人を助ける破目になり、怒りと共に、訊いた。

 だって、川は危ないから。お前がいなくなっても、この子がいなくなっても、誰かが悲しむだろ?俺なら、平気だから。

 馬鹿みたいに明るく笑って言った、その二、三日後だった。
 悪戯が過ぎたムスタディオが街の大人達に捕まり、いよいよどうするという話になった。
 俺は何故だか、その時隣にいた、人の好さそうな職人に、ぼそりと言ったのだ。
 ムスタディオの師、ベスロディオはその悪餓鬼を連れて帰った。

 調子に乗ると思い、言ってはいないが、あの数年後、俺は彼に礼を言われた。

『私にあの子を教えてくれて、ありがとう。手先も器用だが、あの子は職人にとって、何より大切なものを持っている。それは、幾ら経験を積んでも持てるものではないからね』

「俺にとっては、すげえ大事な思い出だってのに、お前本当、つめてえよなあ」

 台詞とは裏腹な、満足気に言うその横顔は、だが、少し陰りが見えた。

「今、あいつのバイオリンを作っているのか」

 いい演奏家を見つけたんだよ。そう教えてくれたのは、俺が初めて、ムスタディオとあの男が一緒にいるのを見てから、数日後だった。それから今は更に、ひと月が経つ。

「ん」

 言わずにおこうと思っていた言葉が、零れる。

「あいつは、やめておいた方がいい」

 ムスタディオはあいつの素性を未だ知らない。俺は、教えてやる事が出来ない。それをこいつが望まないからだ。あの男の口から聞ける時を待っている。

 こいつとて、そこまで馬鹿じゃない。追われる頻度が高くなり、あの男が著名な演奏家の何かなのだという事は、とうに気付いている筈だ。

 利用されているのかもしれないと、暇つぶしに弄ばれているだけではないのかと、全く考えなかった訳ではないだろう。
 そして今も、信じる心の隙間に、ちらちらと顔を出すそれを、必死にねじ伏せている。

 俺にはそれが、手に取るように解る。

「そうだよなあ。俺も、そう思う」

 こんなに頼りない笑顔を、けれど酷く美しいこいつの横顔を、俺は初めて見た。

「けどさ、深く惚れちまった方が、負けなんだよな」

 そうだな。と頷くしかなかった。
 深く惚れた方が負け。
 俺は多分、お前よりずっとそれを感じて生きてきた。

 虫の音が、響き始める。もう秋が近い。

更新日:2012-08-01 01:42:18

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