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■十分前

 あと三組で、自分の順番だ。
 美恵子は軽く手首を振った。癖のようなものだ。自分でも意外だったが、特に緊張もしていない。
 彼女の意識は、昨夜携帯に届いたメールを思い起こしていた。






久しぶり。長い間、連絡しないでいてごめんなさい。
私は今、東京の病院に入院しています。腕は、物を握ることができるようになりました。お箸はまだ無理だけど、スプーンならご飯も食べられます。
足も動かすのはできるけど、歩く訓練はまだです。手がきちんと掴めるようにならないと、転んだりして危ないからなんだって。ちょっともどかしいけど、我慢します。

昨日、西園寺さんっていう刑事さんと会いました。
二時間ぐらいお話しました。
私を襲った犯人を、捕まえてくれたのだそうです。
それから、他にも何だか信じられないようなことを聞かされたのだけど、でも、本当なんですよね。
このところずっと、何だか酷く不安になる夢を見ていて、とても嫌な気分だった。それは、きっと、私の醜い気持ちのせいなんだろうと思います。

ずっと、穂乃香ちゃんにも美恵子ちゃんにも連絡できなかった。
何で私が、私だけ、って思ってた。
こんなことになって、余計に連絡なんてできないと思ったけど、でも、逃げていたらまた同じようになるかもしれないから。

酷いことをして、ごめんなさい。
怖い思いをさせて、ごめんなさい。
ずっとメールを送ってくれて、ありがとう。

リハビリ、頑張ります。
すぐに歩けるようになって、それからきっと走れるようになります。
その時には、また、一緒に走ってください。



 メールの文章は、四ヶ月前までのように、明るく、屈託なく、親しげなものではなかった。
 多分、それがこの事件で生じた、彼女からの距離感だ。
 だけど、それを送ってくれた。
 辛かっただろうに、苦しかっただろうに、怖かっただろうに。
 美恵子は、一度携帯をぎゅっと胸に抱いて、そして返信ボタンを押した。






 ぱぁん、と銃声が響く。
 強く地を蹴って、足を踏み出した。
 正面しか見えない。風を切る音しか聞こえない。
 この感覚は、自分だけのものだ。自分のためだけの、ものだ。

 それぞれが、みんな、自分のためだけに走るのだ。



 ゴールの向こう側、真っ正面の観覧席の通路に、黒い背広を着た男が佇んでいるように、見えた。

更新日:2012-08-22 22:10:11

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白い影 ~不可知犯罪捜査官 西園寺四郎