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柔らかい天然木の香りが疲れた脳に心地よい。
ほのかな照明と総マホガニーの壁で囲まれた落ち着きのある空間。
ほどよく漂ってくる芳醇なコーヒーの香り。

 こんな中にいると、周りのざわついた声でさえ、品のある音楽のように聞こえてくるから不思議だ。

 私は今、今年春渋谷に開業した商業複合施設、『アルテリア』の最上階に位置するコンサートホールのロビーにいる。

 最新トレンドスポットが誇るこのホールは、施設の目玉として開業前から注目を浴びていた。最新の音響設備に加えて、設計も音響に徹底的にこだわったホールである。
私にはよくわからないが、ホールの天井や壁を変えることで聴きごたえは随分変わるらしい。設計は、世界でも脚光を浴びている日本人建築家が手掛けており、こだわりは音響のみならず、内装にも相当なもので、使われている木材すべてが、マホガニーという随分気前のいいインテリアである。
 
アルテリア開業から遅れること一ヶ月。本日が待ちに待ったコンサートホールの初回公演であった。

 私は泉田準一郎。三十三歳。職業は警察官。階級は警部補。役職は警視庁刑事部参事官室、参事官付きである。
 大仰に言ってはいるがなんてことはない。しがない地方公務員だ。なんだ、その卑屈な言い方は!とお叱りをうけそうなところであるが、私だって自分の職業を卑下して考えたことはない。

 しかし、こうも高級ブランドを身に纏った紳士淑女に囲まれては、安物スーツの私はいたたまれない。卑屈になってしまう、その心情もわかって欲しい。

 伝統ある古くからのホールに、威厳でも品格でも負けたくなかったのであろう。主催者側は杮落としのこの公演から相当気合いが入っていた。

 音楽の本場、ウィーンでも屈指のオーケストラと、世界トップクラスの指揮者を招いて話題を呼んだため、チケットは破格の値段をたたきだしたのである。

 何故私が分不相応なこの場所にいるかというと、居たくて居るわけではない。

我が上司のお供である。

 「なに浮かない顔してんのよ。ほら、サンドウィッチ食べないの?中にはいればなんにも食べられなくなるわよ。」

と言ってサンドウィッチを差し出すその人こそ、私の上司だ。

 差し出しておきながら、自分もひとつまみして口もとにもっていく。

そのしぐさはまるで、ヴェルサイユ宮殿でマリー・アントワネットがプチケーキでも食しているかのように優雅でウツクシイ。

 よく食べるのに品があるから、がっついて見えない。正直、徳だよな。この人。

更新日:2012-07-20 13:16:27

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