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森と、鎮魂。

 雇い主は体を休める時間だ。俺は世話係の女中に追い出され、同じ屋敷の自分に与えられた部屋へ戻りながら、その言葉をしばらく反芻していた。
 その二つなら、俺は、歌にできるほど知り尽くしてる、と言えるらしい。


 森というのは言うまでもない。俺が十を数える年まで過ごしていた、母親の故郷のことだろう。

 母親が一度故郷を出て、知り合った人間の男──父親の顔を、俺は知らない。
 彼女がどうして、差別に晒されることがわかっているハーフエルフの──俺たち兄妹を産み、育てようと決心したのかも。

 知っているのはただ、閉鎖的なエルフの里で、混じりものの子供を二人も抱えての生活が、楽ではなかったという事実だ。

 大人からは偏見のまなざし。それを敏感に汲み取った子供たちからは、おおっぴらにいじめていい相手。
 さすがに命の危険にさらされるようなことはなかったけれど、ちょっとした高さの枝から突き落とされて、泣いて帰ったこともある。

「どうして、ぼく、悪いこと、したの?」

 母は俺の打ち身を癒すよう、精霊に頼みながら、左右にゆるく首を振った。

「あの人たちは、ディル、あなたのことを憎んでいるわけじゃないの」

 それなら、どうして?
 たぶん、それが一番最初に刻み込まれた、理不尽だったのだろう。

「あの人たちにも、どうしようもないの」

 そう言って、俺の体をぎゅっと懐に抱きしめる、その母の様子がどことなく儚げに思えたのは、彼女の命の終わりが近づいていたからだったのだろうか。


 細々と生きていくのが可能なぶんだけの施しを受け、日々母親が聞かせてくれる歌だけを楽しみに、生きていた。
 そんなある日、母が、ここから外へ出ていくという。

 外の世界。自分──たち──と同じような存在も、いるという。
 少なくともその時は、誰に追われるでもなく、堂々と。俺たちは森をあとにした。
 

──それ以前の生活と、それ以後の生活との、どちらがよかったのか、俺にはわからない。

 新天地での親子三人の暮らしは、五年と保たなかった。

 最期の頃には、俺は酒場で母親に教わった歌を代わりに流して、薬代や食い扶持を稼ぐようになっていた。
 死の床で、それを教えてくれた喉はもう旋律を奏でることはなく。

「堪忍してね、これが母さんのしてやれる、最後のことだったの」

 弱りゆく咳の音とともに、何度も繰り返された言葉──繰り言。

 それと、今は遠い街の、粗末な墓標だけが、俺の記憶には残されている。


「────参ったな」

 大理石の廊下を覆う、毛足の長く柔らかい絨毯に一歩一歩を沈めながら、俺は苦笑する。

 鎮魂。

 俺が見送ったのは、あのひとだけだ。


「俺、案外、マザコンだったんだ」

更新日:2009-03-03 09:15:43

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