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小説

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──その人は、俺に、自分の教えた歌を、歌うな、と言う。

「どうしてさ?」
 繰り返される言いつけに、その時なぜか珍しく、疑問の声を上げた俺に、彼女は──俺に寝台の上からせっせと自分の知っている歌を教え込んでいる老婆は、
 口を開く前に満足げにうなずいてみせた。

 それで俺には、彼女がずっと、俺がこうやって訊き返すのを待っていたのが判ったんだ。

「いいかい、私の教える歌は、『覚えた』だけじゃあ歌ってはいけないものなんだ」

 磨き上げられた大理石の床から天井まで大きく取られた玻璃の窓。それだけの大きさの玻璃も、掛けられた光を透かす紗も、文句なしに一級品なのだろう。
 しかし、置かれた調度が最低限のものだからだろうか。
 印象はといえば、ただ──

 白い。

 そうとしか言えない部屋だった。
 俺が知るどんなそれよりも、ただ白い寝床だった。

「そんなの、聞いたことない」

 覚えても、歌っちゃいけない歌、だって?
 なら、なぜ覚えさせられるのだろう。意味なんかないじゃないか。
──俺がどうして、言われるまま覚え込んでいるかって言えば、それは雇い主が命じるからなんだ。

──そうだ、奴らの命じることで、この俺に意味のあったためしなどない。
 視線を落とせば、ここのところ手入れを欠かしている指先が視界に映る。急に、それが気になった。竪琴を弾くために、爪は短く揃えてはいるけれど、つい最近までは、やすりで磨いたあとに、鹿皮で艶を出して仕上げるのを欠かしたことなんかなかったんだ──

「お前は、歌い手だからね」

 迷走する思考をふさいだ声が、あまりにピンポイントすぎて面食らった。

「そうでなければ、わかっていない歌をそのまま歌うことを止めはしない」
「わかっていない? 書いてあることが全部じゃないの?」

 本当に、どうしたんだろう、今日の俺は。
 しかもその、普段の俺からしたら無闇に反抗的としか思えないこの言動が、どうやら雇い主の意に染むものらしいというのが、俺には本気で解せなかった。

「海を知らないものが、海を歌えるかい?」
「そんなものだ、って思って歌えばいいんじゃない?」

 壁の一つに掛けられている、海辺で髪を洗う人魚を描いた大きな油絵の額を顎で示して、俺は答える。
 雇い主は俺のそんな仕草を、予想通り、とでも言うように微笑する。

「そうやって歌われた歌は、『そんなもの』でしかないだろうね」

 つまり、今の俺の歌は、全部『そんなもの』でしかないってことか。

「……じゃあ、吟遊詩人はさ。みんな愛を歌うけど、奴らはみんな愛を知ってるってわけ?」
「本当にいい詩人なら、そうだと思うよ」

 わざとひねくれさせた返事でさえ、一笑の元に断じられる。

「ふうん」

 冗談じゃない。
 巷にあれだけあふれてる吟遊詩人が、みんなそんな高尚なものを知ってるだなんて。
 そしたら、俺が出会った詩人や、もしかしたらそれ以外の普通の人の中にだって、一人ぐらいいてもよかったじゃないか。

……それとも、たまたま──俺に向けられなかっただけで、皆、誰かにそれを与えていたのだろうか。

 夢のような、奇跡のようなそれを。

 ふて腐れてしまった俺に、雇い主はなだめるような声音で続ける。

「私が教えてやった歌の中で、お前が知っていると言えるものも、あるだろ?」

 しかも、その台詞の内容と来たら、いかにもなだめているような響きに溢れていた。
 それでも俺は、それに応えざるを得なかった。
 長年のうちに染みついた、雇い主に尻尾を振る習性のせいだろうか。

 たいていのものなら、もう見てきたことがあるよ、と言ってもよかったんだ。
 でも口に出されたのは、たったの二つ。

「……森と、鎮魂の歌なら、なんとか……かなあ……」

 そして、今度はその自分の台詞に、瞬いた。

……鎮魂、か。
 口からすとんとこぼれ落ちた、その言葉を胸で繰り返した。

更新日:2009-01-20 03:46:57