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大切な人


舌の萎縮が進み、私の発する言葉は母にさえほとんど理解されない程になっていた。
握力も衰え、右手は肩より上に上がらなくなっていた。
それでも下半身は比較的機能を保っていた。

やがて筋肉の萎縮と筋力低下は全身に広がる。今のうちに山登りでもしておこうか。
身体を動かす事なら何でも良い。
ただ、今の私に選択肢は多くない。
途中で足が動かなくなるかも知れない。
突然の呼吸困難に襲われるかも知れない。
何が起きても後悔はしない。
何もしない事の方が後悔が大きいに違いない。
これが最後の登山でも良い。
とにかく何か行動を起こそう。

心配する母をなだめ、父の軽トラックを借りて安達太良山へ向かった。
安達太良山は過去に2度登った事があった。野地温泉登山口から少し登ると、すぐに美しいブナ林がある。
山登りの楽しさは、山頂を極めた時の達成感や眺望の素晴らしさかもしれない。

私は森林浴の心地良さが一番好きだ。
目を閉じてゆっくりと深く呼吸する。血液や細胞が浄化されて行くような感覚がたまらなく心地良い。
優しさに包まれた感覚。
細胞がヨミガエル感覚。
至福のトキは、帰り道にゆっくりと味わう事にしよう。

鬼面山の登りになると展望の良い尾根歩きになる。
野地温泉ホテルや吾妻連峰が美しい。

土湯峠から鬼面山にかけては高山植物が多い。
ハクサンフウロ、タテヤマウツボグサ、ミヤマホツツジ。
稜線付近は森林限界を超えているためか樹木がほとんど無く、眺望が素晴らしい。

荷物を減らそうとしてデジタルカメラを置いてきた事を後悔した。
思い出作りの登山だったはずなのに……仕方なくスマートフォンで遠くの山々を撮影した。

野地温泉登山口を出発してから3時間程で安達太良山山頂に着いた。
今のところ足も呼吸も問題ない。
ペットボトルのお茶をコップに移しゴクリと飲んでから、昼食の弁当を広げた。
そういえばこのおにぎりの種類は、初登山の時から変わっていない。


更新日:2012-03-31 13:26:07

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