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悪の幹部がいなくなったら故国が傾きそうなんだが。

 王宮の廊下を、規則正しい足音が進む。
 運悪くそれに行き会った廷臣たちは、慌てて道を空けた。
 彼の存在の全てが、忌避の対象だ。不機嫌そうな顔も、勢いよく繰り出される長い脚も、控えめな濃いグレイで纏めた衣服も、その立場も、後ろ盾だった者も。
 そう、かつても、今も。
 彼は執務室の前で礼儀正しく脚を止めた。扉の両脇に立つ衛兵が、恭しく一礼し、そして室内の主に向けて声を上げる。
「レヴァンダル大公家より、エス・タール様が参られました」
「通して頂戴」
 数秒も待たずに、返事が放たれた。扉を開ける衛兵に小さく頷いて、青年は室内へと足を踏み入れる。

 広大な机の上に羊皮紙を山と積み上げ、眉間に皺を寄せた王女ステラがこちらを睨みつけてきていた。

「進捗状況はいかがですか、殿下」
「増えたわ」
 苦々しく返すと、鵞ペンをインク壷へ放りこんだ。不審そうな顔で、扉の前に立つ青年を見つめる。
「それで? おじさまの方はいかが?」
「おかげさまで、本日は傷も痛まないようです」
 慇懃に頭を下げるエス・タールを、不吉に睨みつける。
「そう。それはよかった。でも、昨日、おじさまが手を貸してくださるかどうか尋ねて頂戴って言ったでしょ」
「旦那様は、まず、自らの手で成し遂げることが大切だと。私を派遣されただけでも、充分以上の厚意ではないですか」
 冷淡に返す青年に視線を固定するが、しかし相手は動じようとしない。
 ステラは小さく溜息をついた。
「全く、貴方、本当にイフテカールの懐刀だったの?」
「彼にとってその立場だったことはありませんが……、共謀者だったことは確かですね」
 肩を竦めると、ようやくエス・タールはステラの正面に設えられた椅子へ腰を下ろした。


 龍神ベラ・ラフマと、四竜王の間の戦いが終わって、一ヶ月ほど。
 まずは何とかカタラクタ王国との休戦協定の叩き台を作り上げ、それを携えたイグニシア王家からの使者と竜王の高位の巫子たちが出立して、ようやく一息つけるか、と思われたのだが。
 ステラは、すぐに、王国の建て直しを迫られた。
 いや、ここまで一ヶ月、延ばしに延ばしていたと言った方がいい。
 龍神の使徒、イフテカールは一ヶ月前まで完全にこの王国を手中に収めており、彼がいなくなってしまったことで、このままの体制で動かし続けるにはどうにも無理が出てきたのだ。
 あの金髪の青年の白く長い指は、政務は勿論のこと、軍務、財務にまで入りこんでいた。
 それを王家の手に取り戻すには、思い切った改革が必要だ。
 しかし、彼に篭絡された貴族や官吏は数知れず、それらを全て排除してしまうと、完全に王国は機能を停止してしまう。
 まずはイフテカールと彼の配下たちへ、金と情報が流れこむ状況を阻止する。
 そして、害となる人材は厳しく罪を追求し、やや益になりそうな人材は残すことで、王国を保っていく。
 それを、まだ若いステラ王女が、一ヶ月前まで宝石とドレスと舞踏会と愛のことしか頭になかった少女がこなさなくてはならないのだ。
 彼女には味方が必要だった。
 イフテカールと長く敵対してきた火竜王宮と、その守護者であるレヴァンダル大公家。
 彼らの助力を求めたのは、彼女にしては苦渋の決断であったのだ。
 だが、それに応じて送りこまれたのは、この仏頂面の青年一人である。
 曰く、火竜王の高位の巫子グラナティスも、大公家の当主も、先の戦いで受けた傷が重く、療養生活にあること。
 エス・タールは、イフテカールが消滅するまでの三ヶ月の間行動を共にしており、彼の陰謀に対しても知識があること、などが理由ではあった。
 特に大公の怪我を理由にされると、ステラも強くは出られない。
 そういった経緯で、ここのところ毎日、エス・タールは独り王宮へ出仕しているのである。

更新日:2014-08-22 23:49:55

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