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小説

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喪の章

 深夜であるにも関わらず、オリヴィニスが跳ね起きる。
 馬の蹄の轟く音が近づいてきているのだ。
 寝巻きのまま、裸足で自室から飛び出しかける。
「お戻りください、高位の巫子」
 だが、扉の前で慣れたように護衛の親衛隊員らがそれを押し留めた。
「何かありましたら、すぐにお知らせ致します。少しでもお休みください」
 突然部屋を飛び出し、躊躇いなく最下階まで飛び降りる高位の巫子は、追いつけなくなる前に制止するより止める術はない。
 学習能力の高い部下たちに、オリヴィニスが苦い顔になる。
 苛々と自室で待っていると、数十分後にようやく扉が叩かれた。
 入ってきたのは、ノーティオだ。
「……ちょっとでも寝ておけよ」
 溜息混じりに言う彼も、顔色が悪い。
「西からの知らせか? どうなってる」
 オリヴィニスが立ち上がりかけるのを制して、ノーティオは勝手に近くのクッションに腰を下ろした。
「一進一退だ。ロポスの岩山が、何とか敵を防いではいる。だが、湖側から侵入しようとする船がいるからな。できるだけ、沈めてはいるようだが」
 二人の若者は揃って眉を寄せた。
 北方の隣国、イグニシアが宣戦布告したのは、一ヶ月ほど前である。
 国境地帯を荒らし回る馬賊たちを何度通達しても取り締まらないのは、フルトゥナが国を挙げて支援しているからだ、というのがその大義名分だった。
 確かに、馬賊は存在する。オリヴィニスはそれをよく知っていた。
 フルトゥナよりも豊かなイグニシアへ遠征する者がいないとも限らない。国境を越えるのは少々大変ではあるが。
 だがそれに対し、国内の貴族たちから兵を募り、王の命令の許に他国と戦争を始める、というのは、些か大事すぎはしないか。
 幸い、イグニシアとの国境はドロモス河である。大河、と言ってもいいほどの幅がある河だ。
 ここを渡り、平原に入る前に聳えるロポスの岩山を越えるのに、イーレクス王子率いるイグニシア王国軍は酷く苦戦していた。
 フルトゥナ西部を拠点とする氏族たちが奮戦しているが、兵力はこちらが少なく、かつ指揮系統もばらばらである。
 彼らが優位に立っているのは、ただ地の利があるという一点だけだ。
 今現在、オリヴィニスにはそのような知識がない。ただ、戦の趨勢にやきもきするしかないのだ。
 ノーティオの手が、僅かに震えている。
「どうかしたのか?」
 尋ねると、びくり、と身体を震わせた。
「何でもない」
「ノーティオ。これ以上、私に隠し事をしないでくれ」
 重ねて言う高位の巫子に、秘書官は長く吐息を漏らす。呼吸すら思うようにできないのか、それは苦しげに揺れた。
「……大したことじゃない。ついでに知らせがあっただけだ。……カルコニス子爵が、出陣すると」
 オリヴィニスが僅かに目を見開く。
「いや、もうしたんだろうな。出発の日付は昨日だった」
 言葉がなくて、オリヴィニスは傍らの卓からワインの瓶とグラスとを手に取った。ノーティオの目前に置いて、無造作に赤い液体を注ぐ。
 礼の代わりに一度頷き、ノーティオが一気にそれを煽った。
「俺は……、俺は、彼を好きでいたことなど、一度もなかった。王都にいた頃、俺と母親があいつにどんな仕打ちをされたか、お前に言っても信じられないだろう。アーラ宮に移ってきてもあいつはちょっかいを掛けてくる。お前のおかげで、俺はようやくあいつとの縁が切れたみたいなものだ。……なのに」
 ノーティオは、強く、奥歯を噛み締める。
「恐ろしいんだ。あいつがもしも死んでしまったら、と思うと。死んでしまえばいいって、今までずっと思っていたのに。俺は、どこまでも、弱い……」
 手に握りこまれたグラスの縁に瓶の口を当てる。かちかちと小さな音を立てながら、再度ワインが注がれた。
「ノーティオ。風竜王の巫子とは、民を護り、その幸福を願う者だ。お前は巫子で、彼は民なんだから、お前が恐ろしく思うのは、きっと当たり前なんだろう」
 見るからに無理をして、ノーティオが笑う。
「お前も何かいい感じのことを言うようになったよな」
「見直したか?」
「ちょっとだけだ」


更新日:2013-12-14 22:02:01