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「そう喧嘩腰にならないでください。私は色々と仕事があるのですから。貴方と違って、最後まできちんと面倒をみる性分なのでね」
 当て擦りを言うと、向こうの気配がややむっとした。
『王女を誑かすことが、それほど大切な仕事なのか?』
「昨夜は王女じゃありません。陛下です」
『陛……っ!?』
 さらりと告げると、絶句した。
 尤も、国王を誑かすことなど、もう三十年も前に完了している。今更手を加えることもない。
 そこのところは特に説明せず、くるりと向きを変えてソファに身体を沈めた。
「ところで、何の用事だったのですか? まさか王女の件で私に文句を言いたかった訳ではないでしょう。可哀相に、私の家令は夜明け前から休めていない有様じゃないですか」
 静かにワイングラスを差し出した家令が、小さく会釈する。苛立たしげな口調とは裏腹に、穏やかに笑むとイフテカールはグラスを手に取った。
『お前がさっさと連絡を寄越せば、一度で済んだんだ。まあいい。事態が動いたぞ、イフテカール。今朝方、カタラクタ南部の藩が、竜王の巫子と連名でイグニシア王国軍へ向けて宣戦を布告した』
「……なんですって?」
 流石に、イフテカールの顔が強張る。
「宣戦布告? 巫子が?」
『そう言っている』
 相手は、いつも慇懃無礼なイフテカールが動揺したことに、こんな時にも関わらず僅かに満足したようだ。
 が、青年はそんなことを気にもしない。
「竜王の巫子が、ですか? 宣戦布告して、戦を起して、民を死なせるつもりだと?」
 ある意味、侮っていたと言えるのかもしれない。
 巫子は、決してその手段だけはとることはない、と高を括っていたのだ。だからこそ、彼は二度に渡って他国に軍を侵攻させていた。
 エス・タールが鼻を鳴らす。
『お前は変なところで常識的だな。あのグラナティスが、その程度のことをやらかさない訳がないだろう』
「……妙な説得力を出さないでください」
 うっかり納得しそうになりながら呟く。
「今朝、と言いましたね。今までに兆候はなかったのですか?」
『前にも言ったが、領主の屋敷に藩内の郷司と周囲の領主が集まってはいた。だが、会議の中身までは把握できていない。軍事行動を起すなら、宣戦布告前に物資を集めなければならないが、モノマキアで大きく資材が動いた形跡もない。貴族の集まりは目立つからな。おそらく、目を惹かないように、他の藩でそちらを融通したのではないかと思う』
 確かに、その程度のごまかしはするだろう。宣戦布告をするまで気づかれなければいいだけだ。
『あと、兆候といえば、妙なことが起きていた』
「何ですか?」
 ふと思い出したようなエス・タールの言葉に促す。
『関係あるかどうかは判らないが、街で、ロマが妙な歌を歌っているんだ。大昔に、竜王と龍神が戦ったとか何とか』
「ロマが?」
 イフテカールが生きてきたのは、決して短くない年月だが、今までにそのような歌を聴いた覚えはない。しかも、それは決して快い内容ではなかった。
「お話中失礼致します、偉大なる使徒よ」
 背後から、ひっそりと家令が声をかけてきた。
「何だ?」
「その歌とおそらく同一だと思われるものが、ここ三日、城下でも歌われております。後ほどご報告しようと思っておりました」
 眉を寄せて、イフテカールは黙りこんだ。向こうにも家令の声は聞こえているせいか、エス・タールも沈黙を続けている。
「詳細を調べろ。いつまでかかる?」
「明朝には」
 家令への命令に、即座に返答が返ってくる。
「よし。……エス・タール。他の街にも調査の手配をしておきます。一時間ほどかかりますが、それが終わったら一旦そちらへ参りましょう。少し様子を見ておきたいですし、どうやら貴方との関係を直結に変えた方がいいようだ」
『直結?』
「貴方が連絡を取りたければ、直接私に繋がるようになります。場合によってはしばらく待って頂きますが、今までのように屋敷に戻るまでは連絡できない、ということにはなりません。ただ、少々苦痛が伴いますよ」
『判った。早く来い』
 脅すように言った言葉に、あっさりと了承が返ってくる。
「最近は気にもしないのですね。お好みが変わりましたか?」
 僅かにつまらなそうに、金髪の青年はぼやいた。
『お前のように複雑な趣味は持っていない。ただ、覚悟はある。それだけだ』
 だが、イフテカールの不満を感じ取ったか、その声にはやや満足げな響きが混じっている。
 貴方も充分複雑だ、と言い返したいのを堪え、では一時間後に、と告げて青年は本を閉じた。



更新日:2013-07-01 00:10:31

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