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小説

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乱の章

 肌を刺す冷気に身を震わせ、彼女はぼんやりと目を開いた。
 窓を隠す分厚いヴェルヴェットのカーテンは、外からの光を遮断している。今がまだ夜なのか朝なのかも判然としない。
 ただ、その寒さと明るさから、暖炉の火が小さくなっていることが知れた。無闇に寝室へ入らぬように、と周知させていることを棚に上げ、彼女は腹立たしく思いながら枕元のベルに手を伸ばす。
 小さな音が響いて、すぐに寝室の扉が開いた。
「お目覚めですか、王女様」
 見慣れた金髪の青年は、全く予測しなかった相手だ。
「イフテカール? 貴方、いつから小間使いになったの?」
 ステラの嫌味を全く気にした様でもなく、僅かに首を傾げて青年は口を開く。
「お目覚め次第ご連絡を、と外に控えておりました。昨夜より、国王陛下が臥されておいでです」
 僅かにステラの表情が暗くなる。
「そう。……容態は?」
「特に危険はないとのことです。が、全快の見こみはまだ」
「お会いできるかしら」
「ステラ様でしたら、いつでも、と」
「判ったわ。着替えます。貴方が手伝ってくれるのでなければ、誰かを呼んで頂戴」


 王宮の廊下を歩く。
 窓から見える風景には、重く雪が積もっている。濃い灰色の空は、酷く低く彼女にのしかかってくるようだ。
 先導する侍女の手にした蝋燭の灯りに目を戻す。
 世界は、未来は明るいだけではないと、思い知ったのはいつの頃だろうか。
 今、彼女の世界は、そして未来は、この冬の空のように重苦しい。
 しかし、ステラは毅然として真っ直ぐ前を見詰めていた。
 彼女は、王女であるのだから。

 王の寝室は、ここもまた暗かった。
「お父様? ステラです」
「おお、お前か。入りなさい」
 くぐもった声が返ってきて、室内へと足を踏み入れる。柔らかな毛足の長い絨毯は、足音の一つも漏らさなかった。
「ご機嫌いかが?」
 枕元に立って、努めて明るく、そう問いかける。
 王は特に大病だ、という訳ではない。
 ただ、半年ほど前から、時折寝こむようになってしまったのだ。これと言った症状もなく、数日すればある程度回復するものではあるが。だが、徐々にその頻度は多くなり、また身体はずっと衰弱し続けている。
 このままでは、緩やかに死へと向かうのではないだろうか。
 そのような不安を、漠然と王宮の者たちは抱いていた。
 ステラが、いかにも父王思いの娘、という風に話しかけている。
 部屋の片隅には、目立つことなくイフテカールが立っていた。彼がこうして寝室内にいることを、もう誰も疑問にすら思っていない。



 夕方近くになって、イフテカールは王宮の無人の廊下を歩いていた。ある扉を開き、一歩中に入る。
 その瞬間、彼は下町にある彼自身の隠れ家へ足を踏み入れていた。暖かな空気が彼を歓迎している。
 吐息を漏らしながら首周りを寛がせていると、背後で小さく扉が開いた。
「お帰りなさいませ、偉大なる龍神の使徒よ」
 深々と頭を下げているのは、痩せた初老の男だった。忠実な家令である彼とは、長いつきあいだ。
「ただいま帰った。何かあったか?」
「カタラクタのモノマキアより伝言が参っています。戻り次第ご連絡いただきたいと」
 モノマキア、という言葉に眉を寄せた。そこにいる相手は、そんな穏やかな伝言を残すタイプではない。
「いつからだ?」
「ほぼ十時間ほど前より」
 おそらく、限度一杯の一時間に一度の頻度で連絡を入れてきたに違いない。イフテカールは手を伸ばし、軽く家令の苦労を労った。
 そして、傍らの卓の上にある本を手に取る。開いたページには、ただ一人の名前のみが書かれていた。インクの発色はやけに濁り、ところどころ塊となって羊皮紙に貼りついている。
「エス・タール? 私ですが」
『遅い! 何をしていた、イフテカール!』
 虚空に声をかけた瞬間、どこからか怒声が彼に浴びせられた。

更新日:2013-08-09 01:27:59