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「……地竜王」
 聞き慣れない名前を繰り返す。
 ぎし、とグラナティスが椅子の背に体重をかけた。
「考えてみれば、不審に思ってもよかった筈だ。火竜王と水竜王は、対を成している。ならば風竜王と対になる竜王がいて当然だった」
「ニネミアと?」
 不愉快なような、不安なような微妙な表情で、オリヴィニスが呟く。
 それに関しては何を言うこともなく、グラナティスが続ける。
「既に大陸のかなりの面積を地獄へ変貌させていた龍神を、地竜王が阻んだ。両者の戦いは七日七晩続き、河は沸き立ち、大地は落ち窪み、山は抉られた。空から炎が降り注ぎ、岩のような雹が落下し、地平線の端から端まで落雷が襲ってきたという。
 そして、とうとう、龍神ベラ・ラフマは封印された。
 しかし、極度に消耗した地竜王も、深い眠りについた。
 龍神が再びこの世界に現れた時に、今度こそそれを滅するために地竜王は蘇るだろう、と古文書は予言している」
 一同が、それぞれ考えこむように、眉間に皺を寄せていた。
 グラナティスが発現させた赤黒い炎の中に見えた、鎖で戒められた龍神。
 あれを見た時の、本能的に感じた忌まわしさを思い出す。
「……聞いたことが、あるような気がする」
 やがて、ぽつりとオリヴィニスが呟く。
「本当か?」
 グラナティスが問いかける。この話の根拠といえば、唯一つの古文書だけだ。他に類似の話があれば説得力が増す。
「ああ。……先代の高位の巫子は、歌が好きでね。それも忘れかけられているような、古い歌がお気に入りだった。よく、草原中に散らばった民を追って旅をしていたよ。彼らが伝える歌を聴いて、残していくのだと言っていた。私がまだ若かった頃は、彼のお供についていったものだ。
 どの部族だったか、年老いた長老が、祖母から教えられた、と言ってそれを歌ってくれたんだ。
 ただ、龍神じゃない。確か、善き竜王と悪しき竜王との戦いだった。……私は、竜王に悪いものなどいるわけがないと思っていて、それで今まで忘れていたんだな。龍神、と歌われていれば、もっと早く思い出せもしたろうに」
「なるほど。興味深いな」
 満足そうに、グラナティスが言う。
 青年が額を抑えて、俯く。
「オリヴィニス様?」
 気遣わしげに、背後からイェティスが声をかけた。
「私は、知っていたのに。三百年前、あの戦乱が始まる前から知っていた筈なのに、どうしてそれを防げなかった……?」
 軋むような声を絞り出す。
「竜王と龍神を言い替えていたとしても、フルトゥナ侵攻時に、龍神は全く表立って動いていなかった。お前が関連づけられる要素などない」
 ばっさりとグラナティスが断じるが、オリヴィニスは顔を上げようとしない。
「あの」
 意を決したように、イェティスがグラナティスを見つめた。火竜王の巫子に見返されるが、怯まない。
「やはり、ただの言い伝えではないでしょうか。……その、一万年前とはいえ、現在、この大陸のどこにもそのような地獄へ変貌させられたような地はありませんし、地竜王が龍神と闘った場所も」
「奴らの鉤爪の痕なら、まだ地上にも見ることができる。クレプスクルム山脈が、ペルデル湖畔で、ばっさりと断ち切られているだろう」
 オリヴィニスの苦悩を減らそうと、そう言いだしたのだろうが、グラナティスはそれに淡々と答えた。
 確かに、あの山脈は、湖の際で断崖を晒している。なだらかに形成されるでもないその姿は、思えば酷く異様だ。
「しかし、それでも」
 更に言い募ろうとしたイェティスが、ぴたりと口を閉ざした。
 静かに、グラナティスが続ける。
「そうだ。地獄へと変貌されかけ、地竜王と龍神とが死闘を繰り広げて落ち窪んだ大地は、その後長い時間をかけて水が溜まり、湖となった。……つまり、この湖底に、地竜王が眠っていると僕は思っている」

更新日:2013-02-21 22:37:58

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