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8 血の記憶




加也が自室で落ち込んでいるときは、
早弥は物音をたてないようにして、
静かに居間で本を読んだり、
パソコンで絵を描いたりしている。


早弥は正直、
鬱病の相手などどう扱ったらいいのか知らなかった。

インターネットで
「鬱病の人にがんばれといってはいけない」と読んだので、
「がんばれ」だけはいわないようにしていた。
せいぜいそんなものだった。


あとは、鬱にはまっている加也を
「落ち込んでいる人」とみなして、
ほうっておいた。

最初ははげましたこともあったが、
励ますと加也は余計疲れるようだったので、
やめた。


早弥は加也が好きだったが、
加也の「落ち込み」におろおろしたり、
悲しんだり、同調したりすることは
まずまったくといっていいほどなかった。


むしろ自分が静かに、かつ
しっかりとしてそばにいれば、
いつか加也は
自然と立ち直ると思っていた。


それは一見冷たい態度ではあったが、
加也の状態を今以下に悪くはしなかった。
結果として、それでよかったのだ。




早弥は加也のために
いろいろなグラフィックスを作ったが、
それを加也に無理やり見せることはしなかった。
祈りのように作業していたかっただけだったからだ。

ただ、バックアップ代わりに
インターネットサーバーに置いて公開はしていた。

誰かに見てもらおうと思ったわけではなかった。
広告屋だった早弥にとっては、
インターネットは
雑然とした小物を収納しておく
物置のようなところだった。

一応はプロだったこともある早弥なので、
グラフィックスは下手ではなかった。
だが早弥程度の腕の人間はネットには幾らでもいたし、
ことさら脚光を浴びるわけもない。
また、脚光を浴びようという気もなかった。
あくまで物置だったのだ。

働いていたころは忙しくて描けなかった勝手な絵を、
失業したおかげで気ままにかけるのは、
皮肉な話だが、楽しいことだった。



早弥は
愛しい男をのせて沈む小船の夢をみるのと
同じほどの昔から、
気にかかって、
何度もバリエーションをかえて描いてきた
モチーフがあった。


それは仲の良い兄妹のように、
男の子と女の子が並んで
笛を吹いているというものだった。

イメージがはっきりしないが、
小さな…オカリナのような笛で、
草笛とかそういった種類の、
自然物を簡単に加工してつくる笛だった。

早弥の心の中ではその笛は
両方とも男の子が作ったものだった。
女の子はその笛をねだって、もらったのだ。

まだクレヨンで絵日記を書いていたころから、
早弥はその絵をよく描いていた。
早弥にとっては、
とても嬉しい気持ちのするモチーフだった。




ある日ネットのグラフィック置き場を見てみたら、
珍しいことにコメントが入っていた。


『男の子と女の子の笛吹きのモチーフ可愛いですね。子供のころ読んだ童話を思い出します。タイトルはわすれてしまいました。最後は二人とも死んじゃう悲恋の物語でしたが、二人の出会いは男の子が手作りの笛を吹いているところへ女の子がやってきて、その笛をほしがるという話だったとおもいます。女の子は男の子が新しいのを作ってあげたのに、男の子が吹いていたほうの笛をほしがるので、男の子は古いほうをあげて、自分が新しいほうをとって、二人で一緒に吹くという話でした。なんかフォークロアっぽいお話だったとおもいます。』



それを読んで早弥は目眩を感じた。
目の前を真っ赤な血が埋め尽くしていく幻を見た。
その血は自分の喉元に刺さった刃から流れているのだ。
熱く濡れた痛みとともに。



「…大丈夫か、早弥。どうしたんだ。」

パソコンの前でつっ伏していると、
加也が通りかかって緩慢に近づいてきた。

「…うん、大丈夫…なんか目眩がしただけ…」
「…無理すんなよ。
俺は…入院してもいいんだし…。」
「ううん、大丈夫だよ。」

早弥は顔をあげて、笑顔を作った。

「調子どう?」
「…ああ、薬が効いてる。」
「そう、よかった。」

「今日、飯、俺が作るよ。
お前疲れちまってるだろ。

 …この絵、何だ?」

「…僕が描いたの。うまいだろ~。」
「上手いな」

加也は覗き込んだ。

「かわいいな。笛ふいてるのか。二人で。」
「そう。」
「海風が吹いてるな。」
「そう!わかる?」
「わかるよ。」


加也は懐かしそうに目を細めた。


そういう人間らしい美しい表情が
加也の顔に浮かんだのは久しぶりたったので、
早弥はうれしくなった。
 


更新日:2012-02-05 20:25:37

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