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アンダー・ザ・クレッシェンドムーン

 松本良順という名前のお医者様は父様と同じ幕府のお仕事をなさっている方で、今回も一緒に上京したのだと手紙には記されていた。とても頼りになるお方だから、何かあれば真っ先にこの人を頼りなさい、と、そう書いてあったから、だから私は彼の元を訪れた。

 なのに。
 まさか。
 お留守だなんて・・・

 呆然と立ち尽くす私の頭上に、細い三日月が悄然と輝いていた。

 ああああああああ。
 どうしよう。

 私、思わず道の真ん中でしゃがみこんでしまう。だからと言って、はばかる人目はない。お月様が夜空を席巻するこんな時間に物騒な外を出歩く人なんていないもの。
 松本先生がお留守だと知って、それなら自分で父様を探すだけだと思い、長丁場になるかもしれないから少しでも安い宿を探そうと郊外まで出てきたのが裏目に出た。

 方向が悪かったのかなぁ。宿なんてどこにもないじゃない。右手には生垣、左手には白壁が闇に浮かんで見えるだけで、お宿を示す提灯の明かりはどこにも見えなかった。

 民家の明かりは見えるからとりあえず前に進んでみようか。

 それとも、左右の、恐らくはお寺だと思うのだけれども、お願いして一泊させてもらおうかな。今が暖かい季節なら堂宇で一晩過ごすくらい出来るのだけれども、真冬の京だもの。下手をしたら翌朝目が覚めないかもしれないと思うと、そんな無謀な真似は出来なかった。
 温石(おんじゃく)と呼ばれるカイロもすっかり冷めている。とりあえず人のいる所にいかなくちゃ。そして、宿屋の場所を教えてもらうか、そうでなくてもとりあえずはお食事の取れる場所・・・人の集まる場所を教えてもらわなくちゃいけない。

 そうよ。江戸から京までひとりでやって来れた私だもの。こんなところでくじけてなんていられない。
 そう気を取り直して立ち上がった時だった。

「・・・人の・・・声?」

 振り返ってみると、提灯が浮かんでいた。
 良かった。
 藁をもすがる思いで揺れる提灯の明かりを目指して歩き――その一分後にはしっかりと後悔している自分がいた・・・

「おーおーやどやぁ? しっとるしっとる。さんちょうさきのかどにい~かげまじゃやがあるじゃっ」
 けっけっけ。
「いーのー わかいもんは。いやおれもわかいかわっはっは」
「わしゃおなごのほうがいい」
「そりゃそーか」
 けっけっけ。

 ・・・酔っ払い。

 私の目の前で足元もおぼつかない様子で品悪く笑いあっている二人の男は、それでも腰に二本差したお侍の――酔っ払いだった。

 お侍といっても藩持ちではないのだろう。こんな時間に外で飲み歩いている時点で、彼らが巷で評判の悪い浪人者だと知れる。関わり合いになるべきじゃないと思ったのだけれども、今の私は本当に藁にもすがりたい気持ちだったからすぐには立ち去る事ができなかった。

 悪い時には悪い事が重なるもんだって。分かっていたくせに私。

「木賃宿がいいんです。どうせ寝るだけだから安い方がいいんですけど、清潔なお布団のある方がいいです。そうじゃなくても、どこかに船宿とか、お食事の取れるような場所、知りませんか?」
 言葉を重ねると、男の一人、提灯を持っていない方が不意に手を伸ばしてきた。
「なんだぁにぃちゃん、腰にいちもつぶら下げちゃってよぉ。使えねぇくせに差してんじゃねぇ。おれが没収してやる」
 刀だ。
 両手を使って一生懸命に説明した時、マントが開いて、腰に差している小太刀が目に入ったらしい。その酔っ払いの思いもかけなかった行動に私、よっぽどびっくりしたのか、あるいは指一本でも触れられるのが嫌だったのか、反射的に一歩身を引きながら、抜いていた。

更新日:2012-02-07 21:44:32

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