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プロローグ

 目の前に京の町並みが広がっていた。
 山の端に落ちる夕日が世界を赤く染め上げていてとても美しく、はやる心を後押ししてくれる。

 ここは本当に京?

 私、ちゃんと辿り着いたのかな。迷わずに来れたのかな。
 暮れ六つを告げる鐘の音が感動を押し包むように静かに鳴り響いていた。街の雑踏より、物売りのはんなりとした声より、何よりもその静かな響きが胸に沁みて、私は手甲に覆われた指先でそっと笠を降ろす。
 泣いちゃいそうだった。

 私の名前は雪村千鶴。

 今はそう呼ばれているけれども、本当の名前はそうじゃない。
 ○○○○。
 思い出すのもためらわれる遠い世界の遠い名前。手の届かない遠い世界から私は流されてきた。

 右も左も分からない世界だった。訳が分からずに混乱して、ただパニックになるだけの私を保護してくれた人物こそが、この世界で親子の縁組をした養父、江戸に住む雪村綱道という名前の蘭方医だった。
 とても優しい人で、いつも私の事を気にかけて大切にしてくれた。私にとっては恩人であるとともに、こちらの世界で手に入れた、たったひとりの大切な家族だった。

 そんな養父が、上京したまま音信不通となって久しい。
 幕末、と、のちに呼ばれるようになる今この時、京の町は不穏な噂に満ちている。そんな話を遠い江戸の町で聞くにつれて居ても立ってもいられなくなってしまい、私、春を待たずに京へとやって来てしまった。

 スニーカーではなく紺足袋にわらじを履いて、レギンスではなく浅黄色の股引を重ね着し、レッグウォーマーじゃなくて脚絆をつけ、暖かいダウンのジャケットの代わりに綿入りの半纏と、その上に合羽と呼ばれる旅用のマントを羽織って・・・つまり、この時代の一般的な男性の旅装に身を包んで、いずれ新幹線が走る事になる東海道を、自分の足だけで歩いてここまでやってきたのだ。それは、生半可な決意じゃ出来なかったと思う。

 だけど、私はやって来た。

 良かった。

 うん。ちゃんと辿り着けた。

 えらいよ、私。

 感動とともに小さく呟き、さて、と顔を上げる。

 日が暮れる。
 私にはまだやる事が残っている。父様を探す為に、彼がかねてから私に告げていた名の人物を訪ねなければならない。だけど大丈夫。父様からのお手紙で、その人の住んでいる場所は分かっているから町の人に尋ねれば迷わずに辿り着けるはず。

 鐘が鳴る。
 赤い空を群れて飛ぶ宿帰りのカラスの鳴き声に背中を押されるように、私は足取りも軽く歩き始めるのだった。

更新日:2012-02-07 21:43:58

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