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一咫半(ひとあたはん)

挿絵 423*317

焼き菓子の香ばしいかおりがしてきた。

華子はオーブンの前に陣取り腕組みをしてそのなかをにらみつけている。えらく真剣な顔つきで、朝から絹子とふたりで作ったカステラの焼き具合を見張っている。

カステラは期待に応えて焼き色を重ね、空気をはらんで次第にその体積を増やし始めている。

秋晴れになった日曜日、小さな台所に飛び込んだ光の粒子が洗いあげられた鍋や食器にまぶしく反射している。

その光を追うようにして穏やかな風が通り抜けると、部屋のなかのかろやかなものがうれしげに揺れる。華子の髪も揺れる。

「あー、すごい、ふくらんできたー」
そういいながら腕組みを解いた華子が振り返り、洗いものを続ける絹子に興奮して報告する。華子らしい、いい顔つきだと絹子は思う。

「そーお? でも、まだまだ時間かかるわよ」
「絹子さん、ほんとにカステラっておうちでできるのね。びっくりね」

「びっくりすることないでしょう。絵本の『ぐりとぐら』で、でっかいカステラを作ってたじゃない。森のみんなでおいしそうに食べてたでしょ?」
「絹子さんて、そんなことよくおぼえてるね」
「ふふ、そんなことだけよくおぼええてるの」

「へんなのー。ね、カステラって牛乳はわかるけど、みりんとかはちみつとかサラダオイルまでいれるなんて知らなかったなあ。それにたまごを七個もいれるのね」
 早口の華子。頭のなかみがくるくると回転しているにちがいない。

「レシピはいろいろあるわよ。でも、華子は、殻が入らないようにうまくたまごを割るから感心しちゃった」
「そうでもないけど……」

「あ、ほっぺたに粉がついてる。せっかくのべっぴんさんが台無しー」
強力粉をふるったときについたのか、オシロイバナの種の中身をなすりつけたように白くなっている。

「もうー、わたしはべっぴんさんなんかじゃないもん」
と文句を言いながら華子は洗面所に飛んでいく。

洗面所を出た華子はダイニングの椅子に腰掛け、思案顔で、むかい側にいる時生に問う。

「ね、時生さん、わたし、やっぱり、今日、沢村さんのおうちにいかなくちゃだめ?」
「うん? 華ちゃんは行きたくないの?」

「うーん、初めてのおうちでご飯食べるのってなんだか……緊張する」
「そうかあ、緊張するかあ……そうだなあ、僕もちょっと緊張するかもしれないなあ」
 そのやりとりと聞いて、絹子は声をかける。

「じゃ、ふたりとも、部屋の隅っこの方でカステラを食べてればいいじゃないの」
「……そんなことして叱られない?」

「ふふ、すっごく叱られるかもねー」
「もー、絹子さんの意地悪!」

「はは、カンさんも来るから大丈夫だよ、華ちゃん。きっと意地悪な絹子の攻撃から僕たちを守ってくれるさ」
     

更新日:2009-01-17 07:44:15

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