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シンヤといっしょに、沈む夕日と競争するように団地に続く坂道を駆け足で登って行っ
たのは何年生の僕だろう。 

明治時代の富豪の屋敷跡に建てられた団地には、時を貫いて生き続ける常緑の大きな木々が豊かに茂っていて、時折、風の通り道を教えるように葉裏を見せる。

子どもたちがいなくなった敷地内にその葉擦れの音が遠い雨の音のように響いていた。水銀灯の光を受けてゆったりと踊る枝垂れ柳の影法師が、あやかしのように僕たちをおびえさせた。

たどり着いた三階の我が家に母はいたのだろうか。おいてけぼりの僕は蛍光灯のしらじらした光の下でいったい誰を待っていたのだろう。

僕の母も透明ランナーのように、ほんとうは僕のそばにいるんだけど、ただ見えないだけで、僕と弟が暮らす日々をどこか見ていてくれて、いつか僕がなにかを成し遂げた日に笑顔で帰ってきてくれるのなら、どんなにいいだろう。

漆黒の闇を切り裂くように揺らめく炎を見つめながら僕は何度もそう思った。


時を惜しむようにそれぞれの胸の奥にしまってあったものを語り合ったキャンプから帰った一週間後に、僕たち家族三人は馴れ親しんだこの町を離れた。

荷物を送り出し、からっぽになった部屋を三人で掃除した。僕たちが生まれてからずっと暮らした時間の痕跡を少しずつ消して、鍵をかけた。

それから団地を出て坂を下りた。

最後の最後に僕たちは純一の家を訪ねた。

「沢村さんにはいろいろご心配をおかけして、長いあいだほんとうにお世話になりました。特に時生の面倒をみていただいてありがたかったです。この通りです」

そういうと父は畳にこすりつけんばかりに頭を下げた。僕も黙って同じようにした。

「おうおう、よしとくれ。志水さん、そんなことしちゃいけねえ。おれたちゃ、なんにもしちゃいねえし」

「ほんと、面倒みたんじゃないですよ。純一が遊んでもらったんですよ。おばさんも楽しかった。ありがとね、時ちゃん。明ちゃんと仲良くね」
 志津さんが早口で言う。

「おお、時ちゃん、たのしかったな、またいつでも遊びにおいで、将棋でもさそうや。明ちゃんもな」

 いつもの口調で孝蔵さんが言った。

そのうしろで純一が右手をあげて「またな、時生」と言った。「おう」と僕は答えた。それが僕たちの交わした最後の会話だった。

「あ、これ」と言って僕は孝蔵さんと志津さんの顔を描いた絵を差し出した。それを広げた見た志津さんが表情を崩して「時ちゃん、ありがとね」と言った。

その横で孝蔵さんがからかった
「時ちゃん、おばさんのしわを描き忘れてるぜ」

「なにいってるの。……時ちゃん、おじさんの毛も多すぎるわよ」
志津さんは震える声で言い返した。

更新日:2009-01-17 07:39:32

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