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エピローグ

 最後の署名まで読み上げて、男は視線を書類から目の前に座る少年へと移動させた。
「相違ないか?」
 茶色がかった髪の少年は、生真面目な顔で頷く。
「ん。ほな、名前の下に印鑑押して。朱肉はある?」
「大丈夫です」
 事前に必要だと聞かされていたから、既に机の上に用意してある。ケースから取り出した印鑑が、ぽろりと床に落下した。
「あ」
 小さく呟いて、慌ててテーブルの下を覗きこむ。向こう側から様子を伺っていた男が、僅かな煌めきに気づいた。
「それネックレスか? しとったっけ、そんなん」
 シャツの下に隠れていた鎖が光を反射したのだ。印鑑を拾い上げて椅子に座り直した紫月が、ああ、と微かに笑みを浮かべた。
「昨日からですよ」
 金属の擦れる音を立てながら、シャツの外側へ引っ張り出す。銀色の鎖は、細い銀色の指輪の中を通っていた。
「嵌めへんの?」
「僕には大きすぎて。大人の男の人に合う大きさなんでしょうか」
 嵌めてみますか? と訊かれ、西園寺は焦ったように両手を引っこめた。
「止めてくれ。ようやく一段落したのに、これ以上騒動は起こしたない」
 その言葉に、また穏やかに笑う。


 二日前の夜。地下の礼拝堂で、紫月は悪魔との契約を交わした。
 その内容は、十年間、悪魔は他の何者にも呼び出されはしないこと。しかし契約者からの召喚を妨げる契約は結べないということで、人間界への降臨を禁じるのは事実上不可能だ。
 そのために、契約者による召喚は二つの指輪を揃えなくてはできない、という制約を課した。
 一つは契約者である紫月に。もう一つは、西園寺が本部へ持ち帰り、そこで保管することになった。
 十年後には契約は終了し、悪魔は自由の身となり、指輪はただの金属の塊となる。
 これが、杉野孝之が死亡した事件の最終的な決着だった。


 翌日いっぱいかかって作り上げた書類に、関係者の印を貰わなくてはならない。この日、西園寺がとりあえず訪ねたのは弥栄紫月の部屋だ。
 その少年は、契約直後から、どこか安心したような満ち足りたような雰囲気を漂わせている。
「咲耶……は、部屋に入れてくれへんやろうなぁ……」
 とんとんと机の上で書類を整えながら、西園寺がぼやく。
「ここでよければ、呼んできますよ。僕が邪魔なら、他の部屋に行っています」
「確かにそうして貰えればありがたいけど。すまんな」
「いいえ。そういえば、太一郎くんはいいんですか?」
 ふと思いついて尋ねた言葉に、西園寺は露骨に眉を寄せた。
「あの坊ちゃんな……。正直、どういう風に調書纏めたらええんか判らへん。協力者なんか襲撃者なんかって問題もある。そもそも、なんか印鑑押したら負けやって思ってそうやしな……」
 溜め息混じりに告げられて、苦笑した。
「ああ、そう言えば、坊ン」
 ぱっと表情を変えて、続ける。
「はい?」
「この件で会うんも今日が最後やろうから、今のうちにちょっと忠告や。……まあ、父親は選べへんさかい、しゃあないけど。坊ンがファザコンでおるかどうかは自分で選べるんやから、じっくり考えた方がええで」
 さらりと渡された言葉を、ゆっくりと理解していく。じわじわと、背筋に寒気を覚えた。
「そ……それ、は」
「言うても、ワシも他人やさかいなぁ。ま、お節介や思うて聞き流してや」
 テーブルに肘をつき、掌に顎を乗せてにやりと笑う。
 この男は、一体何をどこまで勘づいているのか。
「ん。ほな、悪いけど咲耶呼んでくれるか?」
 凍りついた紫月に、西園寺は無邪気に要請した。

更新日:2012-01-04 22:52:02

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