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 反射的にそちらを見上げる。鈍く光る太陽を背に、最上階のベランダから何かが飛び出してきていた。
 あの、部屋は。
「……ああ……」
 心の底に諦観が重く蟠るのを感じて、少年は低く呟いた。
 三十メートル近くある高さから自然落下してきた物体は、身軽にすとん、と地面に降り立った。軽い足取りで男の方へ近づいてくるのは、銀色の長い毛並みをした一匹の犬だ。
 紫月とその隣にいる子犬に不思議そうな視線を向け、僅かに小首を傾げる。
「よしよし。よぅやった、次郎五郎」
 が、男の呼びかけに、嬉しげに尻尾を振った。
「しかしまだ寝とったんかなぁ……」
 身を屈め、銀色の犬を撫でながら小さく呟いた声に被って、更なる破壊音が響く。まるで、割れたガラス戸を思い切り引き開けて桟に叩きつけたような。
「そこ動くんじゃねぇぞてめぇ!」
 聞き慣れた怒声が、朝の澄んだ空気に響く。笑みを深めて、男は身を起こした。ちらりと視線を上に向けると、そのままあっさりと踵を返す。
「え? あ、あの」
 道路に向かって歩き出した男を、思わず呼び止める。
「なんや、坊ン? 一緒に来たいんか?」
「あ、いえそういう訳じゃ」
 即座に否定するのに気を悪くした風もなく、手にしていた煙草を再び咥えると黒服の男は路肩に駐車していた車へ歩み寄った。
「動くなっつってんだろうが!」
 嫌な予感に、上空を振り仰いだ。長い黒髪をなびかせて、一人の少年がベランダの手摺を勢いよく超えている。
 ……流石に彼でもこの高さは拙いんじゃないかなぁ。
 呑気にそう考えている間に、男は車に乗りこんでいた。開いた窓から、落下する少年を見上げている。
「桂!」
 声が響くと同時、下方へ延ばした掌から電光が迸る。四方へ広がったそれは、一瞬で白い翼を広げた巨大な鳥に変化した。
 背に主人を乗せ、純白の式神は滑らかに地上へと舞い降りる。
「待ちやがれ……!」
 身を乗り出し、叫ぶ少年を置いて、車は走り出していた。運転席の窓から突き出された手が、ひらひらと揺らされている。銀色の犬がその後ろを追いかけていく。
「四郎!」
 ぎり、と歯を食いしばる守島咲耶に、ふらりと歩み寄る。
「君の知り合いか?」
「ああ。……乗れ。追いかける」
 その言葉が訝しくて、軽く眉を寄せた。
「僕が一緒に行く必要はあるのか?」
 彼は普段、公私の別を明確にしている。これが仕事のうちであれば全く問題はない。だが、今のところ彼らが受けている仕事はない。普段の咲耶であれば、決して自分を関わらせようとはしないだろう。
「お前から目を離したら、その隙に奴の罠にかかりそうだからな」
 僅かにむっとして、紫月が言い返す。
「信用がないのか?」
「信用はあるさ。奴の卑劣っぷりに」
 きっぱりと断言した言葉に、半ば呆れ、半ば諦めて肩を竦めた。
「カルミア。戻っていろ。何かあったら呼ぶ」
 主人の命令に、一度ぱたりと尻尾を振って、茶色の子犬はすぅっと姿を消した。それを見届けることもなく、紫月は軽く式神の背に登る。
 ばさりと桂が再び翼を広げ、彼らは空高く舞い上がった。

更新日:2011-12-11 20:13:31

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