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第一章

「……判ってます、判ってますって。明日、そちらに着いたら、一番に本部へ参上しますから」
 うんざりとした調子にならないように気をつけつつ、告げる。幸い、電話の相手はそれに気づいていない。
『本当に判っているんだろうな。君が執着している相手がこちらにいることは確かにプライベートの話だが、それで仕事に支障がでるようならこちらも考えなくてはならない。くれぐれも、寄り道はしないでくれよ』
「勿論です。明日、朝一番に新幹線で行きますさかい、昼過ぎには着くと思いますから」
 何度も確約して、ようやく電話が切れた。全く、信用がないにもほどがある。
 男は薄く笑いながら、カーテンを僅かに開いた。窓から見える、空をも照らす夜景は、彼の住まいから見えるものとは全く違っている。
 窓枠にもたれ、手慣れた様子で煙草に火をつける。
 暗い部屋の中に、ただ紫煙が流れた。




 十月にもなると、流石に朝晩は冷えてくる。
 ジョギング時の服装をジャージにしようかと度々思いながら、何となくまだ薄手の長袖シャツを着て弥栄紫月は家を出た。
 エントランスに降り、ガラスドアの向こうに視線を向けて、足を止める。
 このマンションは、扉を抜けて道路に出るまでの間に緑地帯がある。テラコッタを敷いた小道の上、春には蔓薔薇の咲くであろうゲートの傍に、一人の男が立っていた。
 何故か、ざわり、と心の奥が蠢く。
 隣に立つ茶色の子犬の気配が、びりびりとささくれ立っているのが肌で感じられた。それでもそれを態度に出していないだけ、彼は自分の役目を心得ている。
 少し迷ったが、紫月はそのまま足を進めた。
 黒いスーツに、黒いネクタイ。流石にワイシャツは白い。やや上空を見上げ、煙草を咥えていた男は、自動ドアが開くのに気づいてこちらを向いた。煙草を指で摘むと、にやりと笑みを浮かべる。
 この時間帯は早朝ではあるが、時々マンションの住人とは顔を合わせることがある。彼と逢うのは初めてだが、今まで会っていないだけかもしれないのだ。
 そう、このどこか不吉な雰囲気を纏う男が、自分と関わり合いのある相手だとは限らない。
 心の中で言いきかせて、紫月は普段人と会った時のように、軽く頭を下げた。
「おはようございます」
「おはようさん。ジョギング行くんか? 若いのに早ぅからご苦労さんやな」
 想像もしなかった関西弁に、数度瞬いた。が、気を許すほどのことではない。小さく会釈して、その傍らを通り抜けようとする。
「ああ、坊ン。ちょっと時間あるか? 一、二分待っとったら、面白いもんが見れるで」
 かけられた言葉に、反射的に足が止まった。
「面白いもの、ですか?」
 声が掠れてしまったことを、内心で罵る。
 余裕を示せ。隙を見せるな。全世界に対して自分が圧倒的に優位であるという揺るぎない自信を持て。
 この二ヶ月、二人の知人に心構えを徹底的に叩きこまれていなければ、ここまで平静さを保てなかっただろう。
 子犬が、紫月と男の間で立ち止まる。
 それに視線を落として、黒服の男は喉の奥で小さく笑った。
「ええ仔やなぁ。よぅ躾られとる」
「……ありがとうございます」
 紫月の言葉に、男はまっすぐに視線を向けた。
「ワシに吠えかかったり逃げ出したりせぇへんだけ、よぅできた仔やで」
 びくり、と僅かに肩が震えた。
 楽しげに笑いながら、男はひらひらと手を振った。
「そう警戒せんでええがな。もう、すぐやさかい」
「貴方は、何を……」
 緊張感に耐えかねて、思わず詰問しかけたその時。

 遙か上方で、華々しく何かが壊れる音が響いた。

更新日:2011-12-11 20:13:05

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