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 隣室は、窓一つない、シェルターのような部屋だった。式神ネットへのアクセス権を得た吾妻ルカが、一人、あるいは式神を従えて没入する際に使うことが多い。空調は完備しており、調光も、人工的であくまでも事務的なものながら適切だった。S班がこの建物に移る際、短期間の工事ではあったが、この部屋だけは念入りに改修がなされた。扉は、他の部屋とは違う、金属製の重たいものが付けられている。開口部を見る限り、壁も特別誂えの厚さであることが分かる。室内には、LANはおろか、電話用のジャックもない。無線LANの電波も入らない。移動式の、キャスターの付いた机と椅子が一六組ほど入れられているが、今は七組だけが室内中央に円形に並べられ、余剰分はすべて端に寄せられている。駅前によくある時間貸しの会議室のような、生活感のない空間。
「吾妻さんですね。」
 席を立って出迎えた吾妻に、相馬が声をかける。
「はい、相馬様。初めてお目にかかります。お嬢様にはいつもお世話になっております。」
「いやいやこちらこそ、娘ばかりでなく森田も時田も、そして九条君たちもお世話になっています。実は先日娘から、吾妻さんのご覚悟について聞かされました。それで、ぜひ一度お会いしたいと思っていたところでした。」
「私の覚悟など、相馬様やお嬢様のなさっていることに比べれば。」
「謙遜は不要です。嫌らしい言い方かもしれませんが、そのご覚悟がなければ、これから先、杉田の仕事はどうにもならないでしょう。それはつまり、」
 互いに立ったままで語り始めた嶺一郎と吾妻の間に、苦笑を浮かべつつ杉田が割って入る。
「相馬さん、あまりうちの部下を煽てないでください。当人も自覚していますが、吾妻はまだ、己の覚悟に合わせて一歩踏みだそうとしているに過ぎません。」
 これには嶺一郎も照れくさそうな笑みを浮かべた。
「いや、すまない。つい力が入ってしまった。歳のせいか、つい優秀な若い人に肩入れしたくなる。」
「ありがとうございます。今はただ精一杯、新しくいただいたこのネットワークを活用したいと、その一心で努めております。」
 吾妻の言葉を聞いて、相馬は微笑んだ。そして、勘違いであればお詫びするが、と前置きした上で、吾妻に告げた。
「吾妻さん、あなたには複数の魂が宿っているようにお見受けいたします。娘はそのことについて私に伝えませんでしたが、今お会いして、そうなのではないかと拝察いたしました。」
 わずかに吾妻が眼を見張る。動揺というよりも、単純な驚嘆の表情を浮かべる。
「おっしゃる通りです。」
「やはりそうでしたか。大変な日々もおありだったかと存じますが、その吾妻さんのお力が求められる日が来たのだと、私は思います。以後、よろしく。」
 相馬が軽く、頭を下げる。吾妻ルカは、唇を真一文字に結び、深々と頭を下げた。唇を噛みしめなければ、いろいろな思いが溢れ出てしまう。嶺一郎の言葉にはそういう力があった。
「そろそろ、いーい?」
 急に室内に少女の声が響いた。九条由佳配下の式神のうち、今は吾妻ルカ付きとなっているインディゴ、バイオレット、ベージュ、グレーの四柱の式神が、室内に現れた。
「皆さん、お久しぶりです。」
「こんにちは。」
「また少し、背が大きくなりましたね。」
「うふふ。」
 和やかに挨拶を交わしながら、嶺一郎が手にしていたコートを軽く畳んで、壁際に押しやられた余剰分の机に無造作に乗せる。
「相馬さん、本当に何もない部屋で申し訳ありません。」
 コートハンガーすらない部屋であることを、杉田が詫びた。
「いや、戦場に無駄なものを持ち込む必要はないんだ。オレはこういう実務的な部屋の方が落ち着く。どうせこれも、お前と吾妻さんの戦術のうちなんだろう?」
 嶺一郎は携帯電話を取り出すと、圏外の表示を確かめた。
「わざわざ電波を遮断しているらしいしな。」
 杉田と吾妻が笑みを浮かべる。
「情報を遮断しつつ、その実、世界へのネットは主体的に行う、ここは何もないが、センターなんだな。」
 式神たちがにやにやしている。自分たちの「職場」をセンターだと言われて、こそばゆかったらしい。
「では、始めましょうか。」
 ゆっくりと頷いてから、杉田はそう告げた。それぞれが座席に着く。機能的だが事務的に過ぎるデスクと椅子に相馬家の当主が座ると、さすがに、言いようのない違和感が生じる。仕立てのいいダークスーツの下の身体は、いまだ壮健さを微塵も失っていない。本来ならば、黒檀のような貴重な材を用いた、重厚な机の向こうに、深々と腰を落ち着けているような人物である。

更新日:2013-05-15 21:39:12

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教誨師、泥炭の上。 【第四部】