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第五話 東の荒野 Calls for the Moor

 凛と張りつめた、夜であった。
 高尾の駅から歩いて一時間ほどの山中、杉の古木に囲まれ、東に向けて開けたなだらかな谷のもっとも奥まった辺りに、古い小さな社があった。駅を北側に歩き始めて、大正天皇、昭和天皇の陵を護る森を右手に見ながら、西へぐるりと回り込んだ、さらにその先の、深い杉の林の中である。
 耳を澄ませば、付近を流れる沢の水音以外、何も聞こえない。新月の節分の、深夜。人間たちからも、この夜、街の家々を追われた悪鬼たちからも忘れ去られたような、古ぼけた小さな社に、今宵はなぜか、みあかしの明かりが揺れている。
 やがて、杉の葉の降り積もった細道を踏みしめて、社の前に何者かが訪れ始める。大人の背丈の者、子どもの背丈の者。一人、二人とその影は増えていき、やがて五〇人ほどの集団となった。しかし、声一つ立てず、ただ参道を社の前まで歩いてきては、身を屈め、頭を垂れる。大人の背丈の者が九名、残りの人影は皆、一〇歳前後の子どものような背丈。
 社から、突如、声が響いた。
「揃いましたか。」
 細い、だがよく通る女の声。その声に、さらに応える声がある。
「はい。すべて整いましてございます。」
 衣擦れの音がして、社の中でみあかしが消された。
 ぎしり、みしり。社の床を踏みしめるかすかな音。そして、社正面の扉を開ける、やや大きな軋み音が響いて、中から現れたのは、神官の装束を纏った一人の少女であった。
「では、参りましょうか。」
 さざ波のような動揺が集団を一瞬だけ覆うと、すべての者の姿が消えていた。


 一月も下旬に差し掛かる頃。辰巳のS班新オフィスを、意外な人物が訪れていた。コート姿のその男性は、ここの主である杉田律雄と、二人並んで灯りもまばらな建物内の通路を歩いている。運送会社が入っていた八階建てのビルを、数名しかいないS班が単体で押さえたのだから、館内は驚くほど閑散としている。いっさい照明が灯されていないフロアもある。入り口に守衛がいなければ、廃墟のようにも見える。
「いつもの台詞で恐縮だが、お前も、恐ろしい男になったものだな。」
 並んで歩く杉田に向かって、男はそう言った。
「お褒めのお言葉と、受けとっておきますが。」
「ああ。どこの誰が、公安中枢を外に出すなど、思いつく。」
「いえ、相馬さん。ここは中枢ではありません。単なる前線の拠点です。」
 相馬と呼ばれた男は、苦笑を浮かべた。
「戦術の中核をそのまま餌とする、それが当たるか外れるかは、相手次第なんだぞ杉田。」
 他でもない、敵の出方など読めないのが当たり前の、だが、準備不足を言い訳にできない戦いを続けてきた、相馬嶺一郎のことば。日々が覚悟の中にある男の忠告を、杉田はやはり、覚悟で返す。
 「おっしゃるとおりです。ですが、少しでもこちらに目を向けさせることができれば、現場での勝率が変わってきます。ここは聖地の目と鼻の先、陽動の役を果たすには、最適です。」
「うむ。」
「仮にこちらを落とされても、我々には合同庁舎もあります。主要な人員さえ守れれば、遅滞なく業務を継続できます。」
 相馬嶺一郎は無言のまま頷いた。最善の作戦ではあろうが、万全ではない。それは最初から、互いの認識の一致するところだ。
 杉田が作戦室のドアを開けると、在室の三人が立ち上がった。
「結城、長谷川、押野さん。紹介する。こちらが、」
 片手を上げて、柔和な表情で杉田の言葉を遮る。
「相馬嶺一郎です。皆さんには、うちの娘や森田たちが世話になっています。」
「初めまして。長谷川です。」
「結城です。」
「押野と申します。iGateから出向しております。」
 会釈と名乗り合うだけの、簡潔な挨拶だけを交わす。むろん互いに、相手がどういう人物なのかは知っている。
「少し、隣を使うぞ。」
「はい。今、吾妻がおりますが。」
「ああ。その約束だ。では、相馬さん、」
 軽く頷くような会釈をして、にこやかに退室する相馬嶺一郎に、長谷川、結城、押野も頭を下げる。ドアが閉まると、三人とも、ふう、と一つ息を吐いた。
「初めてお会いしたけど、思った通りのオーラの方ね。」
「教誨師ちゃんのお父さん、かあ。超イケメンダンディ。」
「しかも家柄も志も、だもんね。」
「そのような方がわざわざいらっしゃったってことは、……いよいよなんですねほんとに。」
「ええ。私たちも、しっかりしないとね。」
「はい。」

更新日:2013-05-14 21:30:40

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