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星架橋停留所

 ガタガタゴトゴトと鉄の塊を揺らして、市電が星架橋の停留所に停車した。
 道の中央にうがたれた線路を挟み、停留所とは反対側の通りに男が立っていた。男は朝一番の仕事を済ませた後で、これから市電に乗って神保町にある仕事場まで戻らなければならないのだが、すでに二本もの電車を見送っていた。市電を待つ人の列は長く、電車はそれなりに混んではいるが、満員で乗れないほどではない。やって来た電車にわれ先に身を詰めようとしないのは、時間の許す限り人々の往来を眺めることが男の習慣であったからだ。
 もし、その男の風貌を問われたなら、もっさりとしたまとまりの悪い髪に太い黒縁眼鏡をかけた痩せた男だとだれもが答えるだろう。だが、それ以上の特徴を憶えておくことは難しい。取り立てて人の目を惹く容姿ではない代わりに、一所に長時間佇んでいても目につくことはない。それが男の特徴であり、最大の利点でもあった。
 男が観察を始めて三本目の市電の戸が開く。男の視線は市電から降りる人々に注がれた。
「おや、珍客だ」
 革製のトランクケースを両手で提げ、キャスケットを被り、ショートマントを羽織った少年が、ドヤドヤと乗降する大人たちから弾かれるようにして降り立った。混雑した車内で窮屈だったのだろう。人の流れから外れると、ふうと一息吐いて天を仰いだ。
 旅行者だな。
 男は断じた。小さな身に余る大きさのトランクケースを見れば一目瞭然だ。そのトランクも身なりも垢抜けている。田舎から親戚を頼って出てきたばかりの土臭い坊主にはとても見えない。となると外国帰り。今朝一番の船で横浜港に着いてすぐ鉄道で東京駅まで行き、市電に乗り換えてここ星架橋に来たとすれば時間の帳尻は合う。
 市電が発車し、人がまばらになっても、少年は一人だった。だれを捜すでもなく、くりくりとした眼を輝かせて暢気に街並を見回している。人波に押し流されて親と離れてしまったわけでも、停留所で待っているはずの迎えの者と行き違ったわけでもなさそうだった。
 少年がポケットから折り畳んだ紙を取り出すと、それを見計らったかのように親切ごかしの笑みを顔に貼りつけた中年二人連れが少年に近づいた。
 危ないな。
 男は按じた。舶来品らしきトランクケースを抱え、見知らぬ街に降り立った一人旅の子ども。荷物から衣服、果ては身体までいい商売ダネになる。カモネギどころか、豆腐から土鍋まで一式背負って狩られるのを待っているようなものだ。
 男が分厚い黒縁眼鏡の奥で眼を細めていると、無防備にも少年は、紙を指差し二人連れの一人に道を尋ねている。尋ねられた方が紙を覗きこみ、さりげなくトランクケースと少年の間に割って入る。途端に後ろにいたもう一人がトランクを持って駆け出した。
「あっ」
 少年が叫んだ。同時に残った方が少年を突き飛ばし、相方とは逆方向に逃げる。
「だめだよ、そのトランクはぼくから離れると…」
 突き転ばされた少年の声が追いすがる。妙な言い回しだった。身を起こすよりも先に腕を伸ばし、石つぶてを投げる。しかし石つぶては、悪漢の足元には届かず小さく地面に跳ねただけだった。
 眼鏡の男は逡巡し、トランクケースを奪って逃げた方を追うことにした。
 と――。
 突然、ジリリリリリリ…とけたたましいベル音が往来に響き渡った。ベル音はトランクケースから鳴り響いていた。トランクを奪った輩はうわっと悲鳴をあげ、トランクを道に投げ捨てて走り去る。反対側に逃げていたもう一人も音に驚き振り向いたが、相方のしくじりに舌打ちだけを残して一目散に走って行った。

更新日:2011-10-06 22:46:27

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