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桜の木の下で

春とはいえ、午前中はまだすこし寒かった。

『なにもないこの部屋ってこんなに広かったんだ・・・・・・』

しんと冷えた部屋の入り口に立ち、さつきは自分が四年を過ごしてきた場所をもう一度見回す。
カーテンが取り払われた窓から、元気のいい朝日がフローリングの床を照らしている。
ゆっくりと踏みしめるように歩いてみた。

数歩で一周できる小さな空間。
だけど、たくさんの何かを詰め込んだ、大きなアルバムのような気がする。

窓のすぐ右側、本棚のあった位置に、陽に焼けたのか、薄く四角い線が引かれていた。
本の好きなさつきの部屋の中で、一番でかい顔をしてデンとそこに居座っていたブックケース。

しゃがみこんでその跡を撫でていたら、何かの角でえぐられた小さな傷を見つけて、はっとした。
ここへきてまだそんなに経たない頃、一人でどうしようもなく寂しくて、ワインを飲んでやけになって分厚い辞書を投げつけたときにできた傷。

「もう一人じゃないんだから、これはいらないね」
そういって、あいつがあの大きな本棚を動かして、隠してしまったんだった。

思い出してしまうと、見つけてしまったときのおどろきは消え、なんだかほっこりやわらかなものに包まれている気持ちになる。
知らないあいだに、さつきは微笑んでいた。

「さぁ、もういきな」
あいつの声で床の傷がささやく。
ぽんと背中を押されたように立ち上がった。

窓の方をむき、ガラスに息を吹きかけて白いカンバスをつくると、指でさっと文字を書き入れる。

ありがとう

くすっと笑うと、勢いよくターンして、入り口に置いてあったカバンを肩に担ぎ上げて、さつきは部屋を出て行った。

更新日:2011-08-20 19:17:01

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