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最後の飛行
今なお青い深海の奥津城に、一機の航空機が眠っていた。
零式戦闘機。
これは、第二次世界大戦下の日本でもっとも多く作られ、そしてもっとも沢山の人の命を乗せて空を舞った零式の、この機体だけが知っている物語。
早朝、まだ明けやらぬ空の下、五人の若者を乗せた零式が、多数の護衛機と共に飛行場を飛び立った。
その姿を、柵に囲まれた敷地のそばにある麦畑の中で、一人見送っている少女がいた。
彼がこの飛行場に配属になってから、彼女は朝早くに起き出して、必ずここで飛び去る機体を見上げてきた。
そして今、深緑に塗られた零式が遠くへと飛んでゆくのを見ながら、彼が正式に航空隊に入隊したあの日のことを思い出していた。
夕方、薄暗くなってきた中、夕食を済ませてから洗い物をするために彼女が井戸へといくと、庭の小さな畑の向こうに彼が立っていた。
おもわず声をあげそうになったのをこらえて、じっと見つめていると、背後から母親のささやきが聞こえて驚いて桶を取り落とす。
「いっておあげなさい」
母だがらわかったのだろうか、彼女は自分の娘がこの近所の幼馴染に淡い想いを抱いているのを知っていた。
だから軍隊へと入ってしまうまえに、一夜でも語ることができるようにと、声をかけてやったのだ。
母親にそう言われて、彼女は少しだけうつむいていたが、やがて決心したようにきっと顔をあげると、暗がりに立つ彼の方へと小走りに駆け、やがて二人は人目を忍ぶように町の裏を流れる小川へと歩き出した。
濃い緑のすすきが生い茂る川辺に立ち、空を見上げながら少しだけ言葉を交わした。
「おれさ、大学で飛行機の勉強してたから、それに乗れるようになってちょっとうれしかった」
彼女がうなづいたのを、差し始めた月明かりの中、横目で見てから話をつづける。
「自分の設計した機体で自由に空を飛ぶのが夢だったんだ。
・・・・・・いっしょに乗せていってはあげれないけど、もしそうなった時かわりに乗せていくから何かもらえないかな?」
そう言われ、彼女は身を縮こまらせた。
しばらくうつむいて震えていたが、やがて日に焼けた右手を腰に回すと、いつも大事にしていた横笛を取り出して前に差し出した。
だが彼は、その手をそっと押し戻す。
「もらう前にもう一度聴かせてくれないか?」
そういって草の上に腰を下ろした。
待っているその背中を彼女はじっと見つめていたが、こくりとうなづくと、唇に笛をあてた。
流れ始めた清んだ音色を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
『おれの一番すきな、南国の香りがする曲だ』
立ったまま一心不乱に笛を吹く姿を時おりながめながら、やわらかな笑みを頬に浮かべて彼は聞き入っている。
この笛の音が終わる時をおもって、二人は同じことを願う。
世界よ止まれ、と。
いっしょにいられる今と笛をいとおしむように、彼女はゆっくりと音色を奏で続ける。
「ありがとう・・・・・・」
命と同じくらいの想いを込めて、そうつぶやく。
やがて吹き終えてしまった彼女が、そんな背中をぎゅっと抱きしめた。
プロペラの轟音に彼女は意識を戻した。
そして、暗い雲と青い空の境目に向かって飛び去ってゆく、深い海の色に似た機体を見上げて叫んだ。
「ほんとはあたし、行ってほしくなかった!
あなたの身体をぎゅって抱きしめた時、「いかないで!」って言いたかったのっ。
国も世界もどうなったっていい。どこにも行ってほしくなかったの。
でもあたしのわがままは、みんなを守るために飛ぶあなたには言えなかった。
でも帰ってきて! もう一度あなたを抱きしめさせて!」
大空へと舞い上がった翼を追いかけるように、その声が悲しいほど清んだ青空に散った。
眠っていた砂地から、長い長い時を経て、いま零式は横笛を乗せて、さらに深い海の底へと最後の飛行をはじめた。
愛おしむように、何かを願うように、彼女の想いを身に抱いて、機体がその色と同じ海に溶けてゆき、見えなくなった。
零式戦闘機。
これは、第二次世界大戦下の日本でもっとも多く作られ、そしてもっとも沢山の人の命を乗せて空を舞った零式の、この機体だけが知っている物語。
早朝、まだ明けやらぬ空の下、五人の若者を乗せた零式が、多数の護衛機と共に飛行場を飛び立った。
その姿を、柵に囲まれた敷地のそばにある麦畑の中で、一人見送っている少女がいた。
彼がこの飛行場に配属になってから、彼女は朝早くに起き出して、必ずここで飛び去る機体を見上げてきた。
そして今、深緑に塗られた零式が遠くへと飛んでゆくのを見ながら、彼が正式に航空隊に入隊したあの日のことを思い出していた。
夕方、薄暗くなってきた中、夕食を済ませてから洗い物をするために彼女が井戸へといくと、庭の小さな畑の向こうに彼が立っていた。
おもわず声をあげそうになったのをこらえて、じっと見つめていると、背後から母親のささやきが聞こえて驚いて桶を取り落とす。
「いっておあげなさい」
母だがらわかったのだろうか、彼女は自分の娘がこの近所の幼馴染に淡い想いを抱いているのを知っていた。
だから軍隊へと入ってしまうまえに、一夜でも語ることができるようにと、声をかけてやったのだ。
母親にそう言われて、彼女は少しだけうつむいていたが、やがて決心したようにきっと顔をあげると、暗がりに立つ彼の方へと小走りに駆け、やがて二人は人目を忍ぶように町の裏を流れる小川へと歩き出した。
濃い緑のすすきが生い茂る川辺に立ち、空を見上げながら少しだけ言葉を交わした。
「おれさ、大学で飛行機の勉強してたから、それに乗れるようになってちょっとうれしかった」
彼女がうなづいたのを、差し始めた月明かりの中、横目で見てから話をつづける。
「自分の設計した機体で自由に空を飛ぶのが夢だったんだ。
・・・・・・いっしょに乗せていってはあげれないけど、もしそうなった時かわりに乗せていくから何かもらえないかな?」
そう言われ、彼女は身を縮こまらせた。
しばらくうつむいて震えていたが、やがて日に焼けた右手を腰に回すと、いつも大事にしていた横笛を取り出して前に差し出した。
だが彼は、その手をそっと押し戻す。
「もらう前にもう一度聴かせてくれないか?」
そういって草の上に腰を下ろした。
待っているその背中を彼女はじっと見つめていたが、こくりとうなづくと、唇に笛をあてた。
流れ始めた清んだ音色を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
『おれの一番すきな、南国の香りがする曲だ』
立ったまま一心不乱に笛を吹く姿を時おりながめながら、やわらかな笑みを頬に浮かべて彼は聞き入っている。
この笛の音が終わる時をおもって、二人は同じことを願う。
世界よ止まれ、と。
いっしょにいられる今と笛をいとおしむように、彼女はゆっくりと音色を奏で続ける。
「ありがとう・・・・・・」
命と同じくらいの想いを込めて、そうつぶやく。
やがて吹き終えてしまった彼女が、そんな背中をぎゅっと抱きしめた。
プロペラの轟音に彼女は意識を戻した。
そして、暗い雲と青い空の境目に向かって飛び去ってゆく、深い海の色に似た機体を見上げて叫んだ。
「ほんとはあたし、行ってほしくなかった!
あなたの身体をぎゅって抱きしめた時、「いかないで!」って言いたかったのっ。
国も世界もどうなったっていい。どこにも行ってほしくなかったの。
でもあたしのわがままは、みんなを守るために飛ぶあなたには言えなかった。
でも帰ってきて! もう一度あなたを抱きしめさせて!」
大空へと舞い上がった翼を追いかけるように、その声が悲しいほど清んだ青空に散った。
眠っていた砂地から、長い長い時を経て、いま零式は横笛を乗せて、さらに深い海の底へと最後の飛行をはじめた。
愛おしむように、何かを願うように、彼女の想いを身に抱いて、機体がその色と同じ海に溶けてゆき、見えなくなった。
更新日:2011-08-16 21:03:26