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その店のぼんやりとした明かりに引き寄せられたのは、母の店と似た雰囲気を感じたからかもしれない。

時代や流行などとはまったく無縁そうな、雨風でくたびれきった「うどん そば」と書かれた紺ののれんがだらりと下がったその先に、暖気で真っ白く煙ったガラス戸がある。
横の壁にある換気扇から、あたたかい出汁の香りが混じった湯気が流れ出していた。
市場みたいに騒々しい、母と客が交わす威勢のいい会話と笑い声が、がさつでわずらわしい実家の食堂の光景が、頭の中で一時浮かんで消えた。
周りを見渡すと、いつの間にか街道筋まで出ていたらしく、人より通る車の数の方が多い。

冷たいアルミの引き戸に手をかけると、力を入れていないのに自動ドアみたいに開いて、中に閉じ込められていた湿った暖気がむっと顔をなぶった。
「いらっしゃいっ」
店の男の疲れた声がした。
内気を逃がさないようにあわてて後ろ手で戸を閉めると、正彦は店内を見た。
逆L字をした十人も座れば満員の、カウンターだけの店だった。
一番奥の席で、ボア付きジャンパーを羽織った中年の男が、新聞に目を落としながらおでんを口に運んでいる。 他に客はいなかった。
すぐ前の席に腰かけると、顔をあげてメニューに目を通してから、小さな声で
「きつねうどん、ください・・・・・・」といった。
カウンター越しに出されたお冷が入ったコップに口をつける。 カルキ臭い都会の味がした。
所在なく視線を店の中に漂わせたが、変わったものなど何もないただのうどん屋だったので、どうしても目がもう一人の客の方へと向いてしまう。
男の前には、汁が底に残ったどんぶりと、おでんの皿があった。
犬みたいにこんにゃくをかじっている男のいかつい顔つきと、どこか厳しげな表情を見て、あわてて目をそらした。
五分もしないで出てきたうどんは、出来合いを湯で戻したもので、箸でつかむとぼろぼろと崩れて食べにくかった。
正彦はうどんにまで馬鹿にされた気がして、仇みたいにがつがつと飲み込んだ。
ただ腹に詰め込むだけの一時が終わったとき、後ろの戸が開き、冷たい空気と共に濃い香水の香りが背中から正彦を取り巻いた。
入ってきた若い男女四人は、にぎやかに話しながら正彦のすぐそばの席に座った。
綺麗だけれど少し崩れた感じがする四人に気おされて、いそいで立ち上がると勘定を払う。
お釣をもらうとき、ふと視線を感じて目を向けると、さっきの男がじっとこちらを見ていた。
まばたきしない目がこわくて、正彦は渡された硬貨をすばやくポケットに落とすと、追われるように外に出た。

変わらぬ外の世界の寒さに包まれながら、ぼんやりと立っていると、鳴き声が聞こえた。
声がした方を見ると、店の脇の暗がりからひょいっと猫が顔を出している。
白黒ぶちのまだ大人になりきれていないそいつと目が合ってしまったとき、正彦はなんだかもう一人の自分を見つけた気分になった。
近くまでいってしゃがみこむと、そっと手を差し出してみた。
人怖じしないらしく、猫はとことこと前に出てくると、指に顔を擦り付けはじめる。
ゆっくりと抱き上げても嫌がらなかったので、目の高さまでもってきてじっと見つめた。
光の加減で、猫の眼の中に途方に暮れた自分の顔が映って見えた気がして、どきっとする。
首輪が付いていないので野良なのだろう。
行き場の無い生き物同士が出会った偶然に、正彦は泣けてきた。
おもわず猫を抱きしめて、垂れる鼻をすすったとき、うどん屋の戸が開いて男がぬっと出てきた。

更新日:2011-10-11 15:03:20

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