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あじさい

星の無い夜空を隠すビルの群れと、目を焼く様々な原色のイルミネーション。
スクランブル交差点のシグナルが変わるたびに、濁流に似た勢いで動き出す、車のライトと影絵のような人々。
それは、この街にきてもうすぐ一年が経とうというのに、まだ慣れない夜の風景だった。

いったいそんなに急いでどこに向かっているのか。
歩道をうつむきかげんでふらふらと歩く正彦を軽く突きながら、笑顔のない表情で人はみな足早に横を通り過ぎてゆく。
くたびれきったチェックのシャツの腕や、すりきれたデニムの足にそんな他人が当たるたびに、正彦の背は丸くなり、ポケットに差し込んだ手がさらに冷たくなる。
人波の中、段々とその姿は小さくなっていき、飲み込まれ沈んでゆく。
生暖かい人いきれに囲まれているのに、足元から身を切る冷たさが這い上がってきた。
自分の住んでいた地元とはまったくちがう、身震いするほど寒い、この街で初めて迎える冬だった。

この春に入学した大学には、夏休み明けから足を運んでいない。
自分ではわかりやすく標準語に近いつもりでしゃべっているのに、周りにはとてもおかしく聞こえるらしく、くすくすと笑われたのが始まりだった。
下宿先の学生アパートは名ばかりで、壁を隔てたドアの中にいる住人たちの顔を見ることも稀で没交渉だ。
それでもはじめはたまに階段やロビーで誰かに会うと、こちこちになりながらも正彦は挨拶をするのだが、相手はまるで変な生き物を見つけたような目をした後、すぐになんの反応も示さず消えてしまう。

部落-----まわり近所の数十軒がすべて一つの家族のようで、夕食とかも三に一はどこかの家の食卓で大勢に囲まれて食べていた正彦は、自分の想像以上の冷たさをこの都会に感じて、すっかり萎縮してしまった。
こっそりどこかで何かをしても、家に帰ったときには見張られていたみたいにすぐ伝わっていて、あれやこれやと親や大人たちに言われからかわれた地元での日々。
その煩さを嫌って、また純粋にあこがれてやってきたこの都会はたしかに誰にも何も干渉されず気楽だったが、あまりに真逆過ぎてすぐ足元が漂いだし不安になった。

ほっておいてほしくても誰かがかまってくる地元ではよかったが、気が弱く人に話しかけるのが苦手な正彦の性格は大学では役立たずで、未だにまともに友だちといえる者一人いない。
こんなことじゃだめだと、勇気を出してこうして外まで出てきたが、同じだった。
こんなにたくさんの人が目の前にいるのに、その温かさも感じられず、聞こえて来る言葉はスピーカーから出された音声のように無機質だ。
自分と世界を遮断している目に見えない壁の裂け目を探して、正彦は当てもなく街をさまよったが、空気のようなその壁に出口などはなかった。

もがくのにも歩くのにも疲れてしまった正彦の身体は人波を外れていき、川にさらわれた落ち葉が澱んだ淵に溜まるように、歩道の端にある、路地裏へと続く暗がりに追いやられた。
しゃがみこみ力を失った目を闇の先に投げると、その奥にもネオンが輝いていて、正彦には無限に続く悪夢に見える。
明るい歩道の方を向くと、さっきと変わらない人の流れがあった。

人一人いなくなっても世の中は回る。 そう知ってはいたが、こんなにも自分の存在が薄いとは気がつかなかった。
いや、薄いくらいならまだいい。どこにいっても存在自体ないのと同じだから、自分は紙以下だ、そう思う。
思った瞬間、恐ろしい寂しさに襲われて、正彦は立ち上がると、群衆から逃れるように駆け出した。



更新日:2011-10-11 15:02:55

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