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夢の通い路

01

 藤村裕也(ゆうや)は眉を顰めた。
 父である政也(まさなり)から聞かされた話しに、どうしても
反発してしまう。勿論、面と向かってはっきりとは断れない。
 確かに、該当者は少ない。だが、少なくはあるが、
他にいないわけではない。箒(ほうき)の家や柏木の家、
それに行田の家にもいた筈だ。それらの家ではなく、
我が家が選ばれた。理由は分かっている。分かってはいるが、
それでも納得できないのだった。
 御一新から六十有余年。
 今更、乳母(めのと)もないだろう。
 確かに有力華族や金持ちの家では未だに乳母がいたりするが、
華陽院の家系は御一新以降、基本的に乳母を廃止している。
天皇家ではないのである。主上に対して畏れ多いとの
理由から廃止したのだった。
 勿論、後継ぎの問題もあるから、場合によっては
地元の健康な女から授乳の提供を受ける場合もあった。
だが、授乳だけである。養育に関しては、別の人間を
雇うのが常套だった。
 それなのに、何故、うちの文緒を養育も兼ねた
乳母として要求されるのか。
 若様を我が家へお迎えするのなら、まだいい。
だが、そうではない。
 裕也と文緒は、昨年の昭和五年四月、ソメイヨシノの
花びらが舞う暖かな陽気の中で祝言を挙げた。
 前年にアメリカのウォール街で株が大暴落し、
世界中が不況へと突入し、金本位制を取っている国々が
次々と金融危機に陥る中で、日本は金を解禁すると言う
愚行を実施し、関東大震災の痛手に追い打ちを掛けるように、
経済は危機的状況へと進んでいる、そんな世情の中での
祝言だった。

更新日:2011-09-19 10:21:41

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