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『アレックは知っていた』

挿絵 795*800

『アレックは知っていた』

八月も終りだと言うのに、もう狂ったような暑さの土曜日の午後だった。

ぼくの飼い主であるKは汗だくで外から戻ってくるなり、げんなりとソファーにひっくり返ってしまった。

そのままうとうとっとしかけたが、汗が溢れ続け、その汗が耳の中に流れ込んで来るから眼が覚めてしまう。


いきなりぱっと飛び起きて、Kは一大決心したように、
「来年は必ずつけるぞ!」と叫んだ。
それは毎年真夏になると必ず聞かされる『来年こそ必ずクーラーを付けるぞ!』の意味なのである。

Kは着ていたものをむしり取って素っ裸になると、バスルームに飛び込んだ。
そして長—い長—い冷水のシャーワー。
電話が鳴っている、構うもんかと冷い雨の中にいつまでも恍惚と浸っているのであった。

さて、シャワーは終った。
腰にタオルをまいて再びサロンに戻って来ると、ステレオのスイッチを入れる。

Kの大好きなフルートのソロが室内に満ちる。
彼は脱ぎ捨てられた衣類を無造作に床に払い落し、再びソファーに長々と横になったのであった。

「ああ、さっぱりした。まるで、天国だ。これならクーラーなんかいらないよな」
すぐこれなのだ。我が家に取り付けられるのは、何年後のことだろうか。

「アレック、お前もシャワーくらいしたらどうなんだい?気持ちいいぞ」
Kは訪れた睡魔の陰から、からかうように言って眼を閉じた。

アレックとは僕のことだ。
哀れなアレックが家中くまなく探しまわって、蒸し地獄の中で何とか見つけだした避難場所と言えば、サロンの片隅のアンティックの木の椅子の下なのであった。そこに潜るように入り込んで、野良猫がのたれ死にしたような無様な格好で横たわる。

『猫が暑さ負けしてへたばっているのほど様にならないものはないよな』とはKの言葉。
さよう、こんな格好は絶対同僚には見せたくない。たまに遊びに来るベベだって言ってた。彼女の家にはもう3年も前にクーラーが付いたのだって。グーグーの家はこの界隈では2番目に取り付けたんだってさ。

ぐっすり寝込んでいるKを叩き起こしたのは、けたたましい電話のベルだった。

もう、太陽はとっくに向かいの建物に姿を引っ込めて、サロンと寝室のバルコニーを行き来する通し風が、ごく僅かだが快く肌をいたわる時刻になっていた。

掛けてきた相手はこの酷暑など吹っ飛ばしてしまう快活な声で言った。
「ルチオだ。じゃあ今晩は大丈夫だな。九時前に押しかけるよ」
「・・・ああ、そうだったな。すっかり忘れてたよ」
Kはうんざりしたように答える。

「この暑さだから、料理は勘弁してくれよ。ピッツァを取るから、それで我慢してもらうよ」

「心配するな。女房がお前が大好きなインサラータ・ディ・リーゾを用意してくれたんだ。生ハムとチーズも持って行くよ。だから、ワインとビールだけ用意していてくれれば充分だよ。今夜はお前を入れて五人、男ばかりだ」

Kはほっとして心から感謝した。ルチオのかみさんことエレナは独り者のKを気の毒がって、自分が訪ねないときでも、何やかや旦那に持たせる心得た女性なのである。(つづく)

更新日:2011-07-26 21:53:24

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