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陥穽

その頃、同じく自分の変化にとまどっている者がいた。

男は暗いワゴン車の運転席に深く身を沈め、険しい顔をフロントガラスに映している。
その鋭い眼は虚空へとそそがれていたが、外を見ているわけでは無く、己の内側へとむけられていた。

「ふう・・・・・・」
細く息を吐いて、ドリンクホルダーに置いてあったおしるこドリンクの缶に手を伸ばし、一口すする。
脳が溶けるようなこの甘さが男は好きだった。

だが『甘い』という単語が、男がさっきまで考えていたことを呼び覚ます。

目がちらりと助手席へとむけられた。
暗がりなのでよくは見えないが、何かスナップ写真のようなものがシートの上に重ねられている。

男は見てはいけない物に視線を走らせたことを恥じるように、あわててまた前を見た。
だが数分すると、またとなりを見てしまう。

どれほどそれを繰り返しただろう。
やがて耐えかねたように、そっと左手がナビシートへと伸びはじめ、上にある物をつまみあげた。
汚さぬように慎重に自分の前へともってくる。

ハンドル周りにわずかに差し込んだ月明かりに照らされて、男が見ているものがやはり写真であることがわかった。

そして、それを持つ手が震えていることも。

写真には、おどろいた顔でこちらをみている美女の姿が写っていた。

男の指が無意識に写真の美女の顔へ伸びる。
そこでハッと気がつき、伸ばそうとしていた指を拳に握って何かに耐えた。
やがて食いしばっていた口から、聞き取れないほど小さく声がもれだした。

「メイド・・・猫耳・・・・ナース・・・・・・ それは反則です兄貴っ」

そう、もう皆おわかりのことだろう。男はシンであった。
そして写真の女人も予想通り、ネコ耳アリス、桃色ナースと女性化している洋一⇒凛花の姿だった。

なぜ自分がこの写真を見たくなるのか、シンにはわからなかった。
妹からこれを預かった時までは、そういうことはなかったと思う。

「兄貴の女装お出かけの出待ち」という、普通の人なら情けなさで首をくくりたくなる状況の中、手持ち無沙汰で写真をながめているうちに、段々とそれはシンの心を浸してきたのだった。

そう思い起こしていると、また写真をうっとりと見ていることに気づいてシンは固まった。
そろりとバックミラーに目をむけると、そこには自分に一番似合わぬ顔があった。

ミラーに映っていたのは、だらしなく口元を緩めて微笑む卑猥な男の顔。
叫びたくなるような自己嫌悪に襲われて、きつく目を閉じる。
やがて目尻に浮かんでくる涙。

シンは泣いていた。
あまりに浅ましい今の己の顔を恥じて。

だが口は彼の本心を吐露した。

「凛花さん、かわいいっ!!!」

一人の男が甘い闇へと落ちた瞬間であった。

更新日:2011-12-04 21:10:14

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