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母と浴衣
友達に誘われて、近所の海水浴場に泳ぎに行くことになった。まだ夏が始まったばかりの7月初旬。水着はもう春に準備してて、スタイルの方もこの2カ月で目標体重になんとか間に合ったって感じ。
ふと思い出して、そう言えば何年か前に買ったビーチボールがあったなと、クローゼットの中をガサゴソとかき回す。
すると奥の方から見覚えのない桐の箱が、久しぶりの光に眩しそうに身を縮めて、それでも私に存在を主張して冒険者を待ちわびた洞窟の宝箱のような妙な魅力がわき出ていた。
私はうんしょ、うんしょとその箱を部屋の中央に引きずり出した。ご丁寧に封印までしてる。
さてさて、中身はミミックかそれとも…
薄紙で封されている部分を外し箱をあけると、微かな薬品の匂いと共に紙に包まれた色鮮やかな布が出てきた。
あ、これって…浴衣?
私の母は、私が2歳の頃、病気で亡くなったと聞いている。それ以来父はなんと男手ひとつで私を育てた。まだ若かった父には再婚の話もたくさんあったらしいけど、それをすべて断り母の実家の義母と、父の実母の力を借りて、なんとか人並みに、片親の不自由さをそれほど感じさせることもなく、私は育った。来年はもう成人式だ。
だからというか、なのでというか、私には記憶の中の母は全くない。そのかわり私の頭の中には写真やビデオで見る母の姿から、まるで人工知能ICチップ搭載のバーチャル母を作って会話まで出来るようになっていた。その行為はなんだか二人の祖母に悪いような気がして、私のバーチャル母の存在はけして表に出さず、私の心の奥に隠していた。
それがこの桐の箱をあけた時、ナフタリン?の匂いの向うに微かに香る花の匂いが、私を17-8年前にタイムスリップさせた。…暑い、でも心地いい…誰かに抱かれてる。柔らかな肩の上に頬を乗せる。その感触に覚えがある。ああ、この肌触り。これはあの浴衣だ。
遠くでサッカーの試合のアナウンスが聞こえる。誰かがPKを外して世界が歓喜と悲しみに包まれた。私は頭をまわして本物の母を見ようとするんだけど、心地よい揺れと眠気でまた夢の中へ落ちていった。
気がつくと部屋の真ん中で浴衣に突っ伏して寝ていた。
そうか、これは母の浴衣なんだ。淡い水色の中に紫の菖蒲をあしらい、襟元は少し明るめのブルーを基調とした浴衣。鮮やかなオレンジの帯と櫛、星と花びらを象った簪…。それらが桐の箱に綺麗に整理されて入っていた。そして箱の底からカードが一枚。
「紫織へ よかったら使ってね 桜」
紫織は私で桜は私の母だけど…祖母だ。母が封印したようにみせてご丁寧にカードまで添えている。けど、どう見ても祖母の字だし、しかもカードにはポニョのイラスト入りだ。
時代考証がなされてませんよ、おばあさま。
うん、でもありがと。私のサイズにちゃんと仕立て直してあるし。どう考えてもすぐわかる嘘というかイタズラと言うか…この手のことは私の幼少期からたくさんあった。すべて2人の祖母の仕業だ。小さい時はサプライズでメルヘンで神秘的で嬉しかったけど、もうこの歳になるとちょっとうざい。
そんな演出がなくても私は母に包まれてるし、2人の祖母にももちろん父にも感謝してる。
週末の夜、近所で花火大会とお祭りがあり、こっそりとその浴衣に着替えて父や祖母を誘ってみた。その時の父の驚きっぷりはホント録画して天国のお母さんに見せてあげたいくらいだよ。
あんなにオロオロした父を見たのは初めて。お母さん、この浴衣着てパパに迫ったんじゃないの?
話を聞いて飛んできた母方の祖母は、なぜかうんうん頷いて、もう一人の祖母と共闘して浴衣を着付直し、帯をゴージャスに縛り、髪を結ってくれた。
途中「あら、胸は娘の方があったわね」とか
「お尻はもう少し厚めの方が殿方には受けが良いのよ」とか
いらない情報交換から品評会に発展しそうだったので、適当なところで父を引っ張り出してお祭りに向かった。
20年ほど前のお囃子の中、母は父と手を繋いで歩いたんだなぁと考えていたら、なんだか急に涙が出てきそうになって、おねだりして買ってもらったメロンパンナちゃんのお面で慌てて顔を隠した。
「再婚してもいいんですよ、あなた」
一瞬誰が何を言ったのかわからなかった。お面をかぶった私が父に言ったのだ。まさか。
父はちょっと驚いた顔をしたけどすぐに、少し寂しげに
「待っててくれないのか、桜」
と母と会話してるみたいに、空を見上げた。
つられて私もお面を外して空を見上げると、ひゅるひゅると打ち上げられた花火が、夜空に咲く。
浴衣の微かな母の香りが、さわさわと硝煙の臭いの向こうに照れたように隠れた気がした。
ゆっくりと、やさしい夏が過ぎてゆく。
著作:ディー
友達に誘われて、近所の海水浴場に泳ぎに行くことになった。まだ夏が始まったばかりの7月初旬。水着はもう春に準備してて、スタイルの方もこの2カ月で目標体重になんとか間に合ったって感じ。
ふと思い出して、そう言えば何年か前に買ったビーチボールがあったなと、クローゼットの中をガサゴソとかき回す。
すると奥の方から見覚えのない桐の箱が、久しぶりの光に眩しそうに身を縮めて、それでも私に存在を主張して冒険者を待ちわびた洞窟の宝箱のような妙な魅力がわき出ていた。
私はうんしょ、うんしょとその箱を部屋の中央に引きずり出した。ご丁寧に封印までしてる。
さてさて、中身はミミックかそれとも…
薄紙で封されている部分を外し箱をあけると、微かな薬品の匂いと共に紙に包まれた色鮮やかな布が出てきた。
あ、これって…浴衣?
私の母は、私が2歳の頃、病気で亡くなったと聞いている。それ以来父はなんと男手ひとつで私を育てた。まだ若かった父には再婚の話もたくさんあったらしいけど、それをすべて断り母の実家の義母と、父の実母の力を借りて、なんとか人並みに、片親の不自由さをそれほど感じさせることもなく、私は育った。来年はもう成人式だ。
だからというか、なのでというか、私には記憶の中の母は全くない。そのかわり私の頭の中には写真やビデオで見る母の姿から、まるで人工知能ICチップ搭載のバーチャル母を作って会話まで出来るようになっていた。その行為はなんだか二人の祖母に悪いような気がして、私のバーチャル母の存在はけして表に出さず、私の心の奥に隠していた。
それがこの桐の箱をあけた時、ナフタリン?の匂いの向うに微かに香る花の匂いが、私を17-8年前にタイムスリップさせた。…暑い、でも心地いい…誰かに抱かれてる。柔らかな肩の上に頬を乗せる。その感触に覚えがある。ああ、この肌触り。これはあの浴衣だ。
遠くでサッカーの試合のアナウンスが聞こえる。誰かがPKを外して世界が歓喜と悲しみに包まれた。私は頭をまわして本物の母を見ようとするんだけど、心地よい揺れと眠気でまた夢の中へ落ちていった。
気がつくと部屋の真ん中で浴衣に突っ伏して寝ていた。
そうか、これは母の浴衣なんだ。淡い水色の中に紫の菖蒲をあしらい、襟元は少し明るめのブルーを基調とした浴衣。鮮やかなオレンジの帯と櫛、星と花びらを象った簪…。それらが桐の箱に綺麗に整理されて入っていた。そして箱の底からカードが一枚。
「紫織へ よかったら使ってね 桜」
紫織は私で桜は私の母だけど…祖母だ。母が封印したようにみせてご丁寧にカードまで添えている。けど、どう見ても祖母の字だし、しかもカードにはポニョのイラスト入りだ。
時代考証がなされてませんよ、おばあさま。
うん、でもありがと。私のサイズにちゃんと仕立て直してあるし。どう考えてもすぐわかる嘘というかイタズラと言うか…この手のことは私の幼少期からたくさんあった。すべて2人の祖母の仕業だ。小さい時はサプライズでメルヘンで神秘的で嬉しかったけど、もうこの歳になるとちょっとうざい。
そんな演出がなくても私は母に包まれてるし、2人の祖母にももちろん父にも感謝してる。
週末の夜、近所で花火大会とお祭りがあり、こっそりとその浴衣に着替えて父や祖母を誘ってみた。その時の父の驚きっぷりはホント録画して天国のお母さんに見せてあげたいくらいだよ。
あんなにオロオロした父を見たのは初めて。お母さん、この浴衣着てパパに迫ったんじゃないの?
話を聞いて飛んできた母方の祖母は、なぜかうんうん頷いて、もう一人の祖母と共闘して浴衣を着付直し、帯をゴージャスに縛り、髪を結ってくれた。
途中「あら、胸は娘の方があったわね」とか
「お尻はもう少し厚めの方が殿方には受けが良いのよ」とか
いらない情報交換から品評会に発展しそうだったので、適当なところで父を引っ張り出してお祭りに向かった。
20年ほど前のお囃子の中、母は父と手を繋いで歩いたんだなぁと考えていたら、なんだか急に涙が出てきそうになって、おねだりして買ってもらったメロンパンナちゃんのお面で慌てて顔を隠した。
「再婚してもいいんですよ、あなた」
一瞬誰が何を言ったのかわからなかった。お面をかぶった私が父に言ったのだ。まさか。
父はちょっと驚いた顔をしたけどすぐに、少し寂しげに
「待っててくれないのか、桜」
と母と会話してるみたいに、空を見上げた。
つられて私もお面を外して空を見上げると、ひゅるひゅると打ち上げられた花火が、夜空に咲く。
浴衣の微かな母の香りが、さわさわと硝煙の臭いの向こうに照れたように隠れた気がした。
ゆっくりと、やさしい夏が過ぎてゆく。
著作:ディー
更新日:2011-07-07 18:22:39