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 銭泡が門をくぐると初老の男が庭を掃いていた。その、いかつい顔には見覚えがあった。
「与助、しばらくじゃのう」と銭泡は声を掛けた。
「銭泡様ですか、お久し振りで‥‥‥」
「おぬしも一緒じゃったのか」
「へい。お子さんがおりますもので‥‥‥」
「そうか、御苦労な事じゃ。御主人は起きていなさるかな」
「へい。起きております」
「そうか。いい所に住んでおるのう」
「へい。お陰様で」
 銭泡が与助と話をしていると、万里が屋敷から顔を出した。
「銭泡殿、早いのう」
「与助にも言ったところじゃが、いい所に住んでおるのう」
「おお、最高じゃ」
 屋敷の裏の方から若い侍が顔を出した。
「銭泡殿、お久し振りです」
 万里の弟子の明智孫八郎だった。
「おう、おぬしも一緒じゃったか」
「はい。お供して参りました」
 明智孫八郎は万里が美濃の国にいた頃の弟子だった。万里の住んでいた鵜沼(うぬま)の近くの明智城主の伜で、漢詩が好きで万里の弟子となっていた。三男であるため、気軽に江戸まで付いて来たのだろう。
 屋敷に上がると銭泡は万里の家族たちと再会した。
 万里は京都、相国寺(しょうこくじ)の禅僧だった。当時、相国寺は五山派と呼ばれる文学の中心で、五山派の僧侶は座禅をするよりも漢詩作りに熱中していた。中でも万里の詩は有名だった。
 万里は応仁の乱が始まると戦を避けて京を去り、美濃の国の鵜沼に落ち着いた。そこで出会った、お小夜という娘と一緒になるため還俗(げんぞく)した。還俗しても、万里の詩人としての価値は変わらない。美濃の守護代、斎藤妙椿(みょうちん)の保護のもと、土岐(とき)家の家臣たちと交わり、鵜沼でのんびりと暮らしていた。出家していた当時は万里集九と名乗っていたが、還俗してからは漆桶万里と称している。いつまで経っても悟りを開く事ができず、漆の桶のような無明の闇が万里も続いているという自嘲を込めた名前だった。
 銭泡が鵜沼の万里を訪ねたのは四年前の事だった。連歌師宗祇(そうぎ)より美濃に行くなら訪ねてみるがいいと言われ、突然、訪ねて行ったのだが歓迎された。銭泡と万里は同い年で、応仁の乱が始まるまで共に京に住んでいたので共通の話題が幾つもあり、共通の知人も何人かいて、すぐに意気投合した。
 銭泡は万里の紹介で土岐家の家臣たちに茶の湯の指導をしながら、一年近くも万里の世話になっていた。美濃から遠く離れた江戸の地において、こうして再会するとは、まるで、夢でも見ているようだった。
 万里の子供たちは皆、大きくなっていた。銭泡にとっては、あっと言う間の四年だったが、子供たちにとって四年という月日は驚く程、成長するものだった。
 長女のさつきは十六歳になり、もう嫁に行ってもいい年頃の綺麗な娘になっていた。次男の百里は十歳になり、武士になるんだと言って明智孫八郎に武術を習っているという。次女のはづきは七歳になり、前に見た時はまだ赤ん坊のように母親に甘えていたが、今は男の子のように真っ黒になって遊んでいる。そして、子供たちを優しそうに見守っているのが万里の妻、お小夜だった。
 お小夜は万里よりも二十歳以上も若かった。四年前は顔色がすぐれず、病気がちだったが、今はそんな事もなさそうだ。皆、幸せそうに暮らしていた。
 千里という長男がいたが九歳で病死してしまったという。銭泡が四年前に美濃に行った時には、もういなかった。
 子供たちは毎日、道灌の子供たちと一緒に、芳林院にて読み書きを習っているという。子供たちが出掛けて行くと、万里は銭泡を庭の片隅に建てられた茶室に案内した。

更新日:2011-06-05 07:42:37

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