• 52 / 82 ページ

15.桔梗の花一輪

 糟屋のお屋形を去る時、お紺は姿を現さなかった。部屋まで行ってみると、荷物はそのまま残っていた。不思議な事に、牧谿(もっけい)の絵だけがなくなっていた。お紺が自分の命を狙ったと聞き、会うのは恐ろしかったが、もう一度、あの笑顔を見たいような気もした。
 銭泡は曽我豊後守の率いる百人余りの兵と共に江戸城に向かった。
 豊後守は三十歳前後の若い男で、始終、渋い顔をして部下たちに文句を言っていた。
 豊後守はお屋形、定正より、江戸城の城代を命じられて江戸城に入るとの事だった。扇谷上杉家の事に銭泡が口出しする事はできないが、道灌の嫡男である源六郎資康の立場がどうなってしまうのか心配だった。江戸に向かう途中、何度か、その事を豊後守に聞いてみようと思ったが、いつも、怒っているようなので聞く事はできなかった。
 銭泡は江戸に帰ると真っすぐに『善法園』に向かった。お紺が銭泡よりも先に江戸に来て、お志乃を襲いはしないかとずっと心配だったが、何事もなかったようなので、ほっと胸を撫で下ろした。
 お志乃は首を長くして銭泡の帰りを待っていた。
「よかった‥‥‥無事で」と銭泡の顔を見ると嬉しそうに銭泡の手を取った。
「心配だった」と言いながら銭泡を見つめて涙ぐみ、ついには、銭泡の胸に顔をうづめて泣いてしまった。
 どうしたんだと銭泡は戸惑った。
 道灌の急死騒ぎで、誰も銭泡の事を知らせてくれなかったらしい。道灌の供をして行った者たちは皆、江戸に帰って来ているのに、銭泡だけが戻って来ない。噂では道灌に殉死した者が何人もいたという。もしかしたら、銭泡も殉死してしまったのではないかと心配していたのだという。
「お屋形様に引き留められていただけじゃ。死にはせんよ」
「わたしも死のうかと思ってたのよ」
「わしは大丈夫じゃ‥‥‥」
 ようやく落ち着くと、お志乃は涙を拭いて、
「大変な事になったわね」と言った。
「ああ。恐ろしい事じゃ」
「お殿様が急にお亡くなりになるなんて‥‥‥お風呂場で倒れたって聞いたけど、亡くなってしまうなんてね」
 お志乃は殺されたという事を知らなかった。どうやら、殺された事は隠され、急病で亡くなったと公表されたらしい。
「お城の方はどんな様子じゃ」
「毎日、評定(ひょうじょう)をしてるみたい。重臣の方々がお城に集まってるわ」
「そうか‥‥‥それで、家督の方は問題ないんじゃな」
「若殿様が跡を継ぐんじゃないの。今、足利学校にいらっしゃるらしいけど、重臣の方々が助けて行けば大丈夫じゃない。大殿様もいらっしゃるし」
「越生の殿様も今、お城にいらっしゃるのか」
「ええ。いらっしゃいます」
「じゃろうの‥‥‥道真殿の言っていた通りになってしまった‥‥‥さぞ、悲しい事じゃろう。自分よりも先に息子さんが亡くなってしまったんじゃからのう」
「大殿様は殿様が倒れる事を予想してたの」
「いや、そうじゃないが。わしはちょっとお城に行って来るわ。万里殿の事が心配じゃ」
 銭泡はお志乃に送られて『善法園』を出た。
 自分が何者かに命を狙われているという事をお志乃に言う事はできなかった。お紺がもし、ここに来たとしても何も知らないお志乃を殺す事はあるまいと思った。
 江戸城の警戒は厳重になっていた。いつも、外城で武術の稽古をしている兵たちも警固に加わっている。まるで、敵がすぐにでも、ここに攻めて来るかのようだった。
 銭泡は城内に入る事ができた。外城から中城に渡り、平川神社の隣の梅林の中にある万里の屋敷に向かった。城内は人が大勢いるわりには不気味に静まっていた。
 万里は沈んだ顔をして銭泡を迎えた。
「やっと、帰って来たか」
「ようやくな。糟屋のお屋形様がなかなか、帰してくれんので参ったわ」
「そうじゃろう‥‥‥おぬしの帰りを待っておったんじゃ。向こうで何があったのか詳しく聞かしてくれ」
「ああ。あそこに行くか」
「そうじゃのう。久し振りにおぬしのお茶でも飲みながら聞くかのう」

更新日:2011-06-05 15:33:22

  • Twitter
  • LINE
  • Facebook