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14.狙われた銭泡

 夏の盛りも過ぎたとみえて、このところ、過ごし易い日々が続いていた。
 銭泡が糟屋の屋形に来て五日が過ぎた。
 お屋形の定正に、そろそろ、江戸に帰りたいと告げると、明日、曽我兵庫頭の伜、豊後守が江戸に行くので、一緒に行けばいいと言われた。ただし、関東を去る前に、もう一度、来てくれと頼まれた。もう一度、来たいとは思わなかったが、一応、頷いた。
 昼過ぎ、銭泡は道灌の墓参りに出掛けた。ここを去ってしまえば、もう、墓参りもできなくなる。銭泡は道灌に最後の別れを告げていた。
 道灌の墓のある洞昌院はお屋形の北東、五町(約五百メートル)ばかりの所にあった。洞昌院とお屋形の間には、お屋形の鎮守(ちんじゅ)である山王社の森がある。帰り道、その森の側を通った時、銭泡は見慣れない山伏と擦れ違った。錫杖(しゃくじょう)を突きながら俯き加減に歩いていた山伏は一度も銭泡を見ずに通り過ぎた。
「危ない!」と誰かの声が聞こえたが、その前に銭泡は身の危険を感じて、杖を構えながら振り返った。
 山伏が剣を振り上げていた。
 銭泡は後ろに飛びのき、その剣を避けようとした。山伏は銭泡の方に踏み込んで来た。その時、どこからか手裏剣が飛んで来て山伏の肩に刺さった。
 山伏は顔をしかめて剣を銭泡の方に投げつけた。銭泡はその剣を杖で払い落とした。
 山伏は逃げて行ったが、途中で、つんのめるようにして倒れた。
 木の上から風輪坊が飛び降りて来た。
「驚きましたね」
 風輪坊は銭泡の持っている杖をしげしげと眺めていた。
「銭泡殿が棒術を身に付けていたとは‥‥‥」
「自分の身ぐらい守れん事には旅を続ける事はできんからのう」
「それにしても以外でした」
「それよりも風輪坊殿こそ、どうして、こんな所に」
「駿河に帰ろうと思ったんですが、途中で、銭泡殿を守れと命じられたのを思い出して戻って来たのです。命令も守らず、駿河に帰ったのでは、お頭にどやされます。わしが駿河に帰らなくても、あちらには仲間が大勢いますからね」
「そうじゃったのか。お陰で助かったわ。もう少しで殺されるところじゃった。しかし、どうして、わしの命など狙うんじゃろうか」
「奴に聞いてみれば分かるでしょう」
 倒れている山伏の所に行ってみると、山伏はすでに死んでいた。風輪坊の投げた手裏剣の他に、別の手裏剣が胸に深く刺さっていた。
「誰だ?」と言いながら風輪坊は懐(ふところ)に手を入れ、辺りを見回したが、すでに敵がいるはずはなかった。
 風輪坊は胸に刺さった手裏剣を眺めた。何の変哲もない手裏剣だった。刺され具合から見て、正面から投げられたものだった。
「何者なんじゃろう」と銭泡は死んでいる山伏を見下ろしながら言った。
「多分、弥吉の手下だ」と風輪坊は言った。
「弥吉?」
「ええ。銭泡殿、下男の弥吉の事を調べたでしょう」
「調べたという程の事もないが‥‥‥」
「弥吉は怪しい。何者かは分からんが、お屋形様と曽我兵庫頭がお茶室で話していたのを隠れて聞いていました」
「やはり、あの時、弥吉は盗み聞きしておったのか」
「それに、お紺という女も怪しい。弥吉と隠れて会っていました」
「お紺さんが?」
「ええ、お紺は弥吉だけでなく、怪しい商人とも会っていました」
「怪しい商人?」
「多分、どこかの山伏だろうが身元は分からなかった」
「あのお紺さんが‥‥‥」
 銭泡にはお紺が道灌の暗殺にかかわっていたとは、とても信じられなかった。あんな気立てのいい娘が怪しいなんて信じたくはなかった。
 風輪坊は殺された山伏が身に着けている物を調べていた。身元が分かるような物は何もなかった。
「銭泡殿、お紺という女に何か言いませんでしたか」
 風輪坊が自分の手裏剣を死体から抜き取りながら聞いた。
「いや‥‥‥」
「道灌殿を殺した下手人の事とか、話しませんでしたか」
「その事なら話したが」
「下手人は長尾伊玄だと言ったのですか」
「ああ。そう言ったが‥‥‥」
「もし、弥吉とお紺が伊玄の一味だったら、どうなると思います」
「わしを殺すというのか」
「伊玄としては道灌殿を殺したとしても、自分がしたという事は隠しておきたいのでしょう。道灌殿を殺した事が広まれば、伊玄は関東中の武士を敵に回すという事も考えられます。伊玄としては、ここのお屋形様が道灌殿を殺したという事にしたいのだと思います」
「ここのお屋形様も道灌殿の命を狙っていた事は確かじゃが、自分の口から、そんな事を言うかのう。お屋形様としても関東中の武士を敵に回したくはあるまい」

更新日:2011-06-05 15:00:42

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