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その絵は明国(みんこく)の山の中の静かな湖を描いたものだった。水墨画もちょっと見ただけだと皆、同じように見えるが、よく見ると絵師によって筆使いや、山や木や雲や水の描き方にそれぞれ個性があり、有名な絵師の作品を見分けるのは本物を目にした事のある者にとって、それ程、難しい事ではなかった。
銭泡は京にいた時、村田珠光の弟子として将軍家の所持している東山御物(ごもつ)の名画を見た事もあり、また、奈良においても珠光と共に寺院に秘蔵されている名画を見て回った。さらに、周防(すおう)の山口では明国まで行った事のある雪舟より有名な絵師たちの特徴を詳しく教わっていた。大抵の絵なら目利きする自信はあった。
「これは、夏珪(かけい)でしょう」と銭泡は答えた。
「やはり、夏珪ですか」と朝昌は満足そうに頷いた。
「わしも、そんなような気がしていたんです。やはり、夏珪でしたか」
「夏珪だったのか‥‥‥」と成高が絵を眺めながら唸った。
夏珪は南宋時代(一二〇〇年頃)の絵師で、当時の日本の画壇にも多大な影響を与えていた。夏珪、馬遠(ばえん)、牧谿(もっけい)、梁楷(りょうかい)、玉澗(ぎょくかん)などが有名で、茶の湯を嗜(たしな)む者なら皆、その位の名前は知っていた。
銭泡は朝昌と成高と共に客殿内に飾られてある絵や茶壷などを見て回り、目利きをしてやった。二人が熱心に色々な事を聞くので銭泡も喜んで教えてやった。主殿の方まで行き、飾り物を見て戻って来たが、道灌はまだ、風呂から上がっていなかった。
「道灌殿は長湯じゃのう」と朝昌は言ったが、別に気にもしていないようだ。
銭泡は気になって、鈴木兵庫助に湯殿まで行って、ちょっと見て来てくれと頼んだ。
兵庫助も少し長いような気がすると言って、仲居に案内させて湯殿に向かった。
茶室の方ではお茶会の準備が始まっていた。仲居たちがお膳を運んでいる。銭泡は縁側から眺めながら、これから始まるお茶会も、かなり贅沢なものだろうと思った。一汁三菜の質素なものではなく、二の膳、三の膳まで付いた豪華な料理が並ぶに違いない。そして、その後には華やかな宴会が始まるのだろう。
突然、女の悲鳴が聞こえた。
銭泡は嫌な予感がして、立ち上がった。悲鳴が聞こえて来たのは、確かに湯殿の方からだった。
「曲者じゃ!」と誰かが怒鳴る声がした。
銭泡は庭を見回したが怪しい人影はない。料理を運んでいる仲居が二人、立ち尽くして、悲鳴のした方を見ていた。表の方から武装した侍が五、六人、庭園を横切って湯殿の方に駈けて行った。
銭泡は上原紀三郎と顔を見合わせると湯殿の方に向かった。途中で、戻って来た兵庫助と出会った。兵庫助は二人の前に座り込むと二人を見上げ、口を動かしていたが声にはならなかった。
「どうしたんじゃ」と紀三郎が兵庫助の腕をつかみながら聞いた。
「道灌殿はどうした」と銭泡は聞いた。
「殿が、殿が‥‥‥」
「殿が、どうしたんじゃ」と紀三郎は兵庫助の体をゆすった。
「殿が、殺された」
「何じゃと‥‥‥」
紀三郎は兵庫助を突き飛ばしながら、湯殿へと飛んで行った。銭泡も後を追った。
湯殿の回りは武装した侍で囲まれていた。
紀三郎の後に従い、湯殿に入ると真っ赤に染まった湯舟の中に、首のない道灌の死体が沈んでいた。
無残な殺され方だった。
定正が駈け込んで来た。湯舟の前に立ち、死体を見下ろすと、
「誰じゃ、誰がやったんじゃ」と怒鳴り、回りにいた侍たちに、絶対に下手人(げしゅにん)を捜し出せと命じた。
侍たちは散って行った。
「どうして、こんな所で殺されるんじゃ。お茶会の準備も整ったと言うのに‥‥‥」と定正が独り言を呟いたのを銭泡は耳にしていた。
道真の言った通りになってしまった‥‥‥
道灌は何者かに殺されてしまった‥‥‥
誰が殺したのか、分からない‥‥‥
定正かもしれないが、はっきりした確信はない。もし、定正だとしても湯殿で殺されるのは知らなかったに違いない。定正は道灌が殺された時、茶室でお茶会の準備をしていた。道灌が殺されれば、お茶会は中止となる。中止となるはずのお茶会の準備を熱心にしていたとは思えない。
銭泡は湯殿の裏の祠の中に隠れていた竜仙坊の事を思い出した。祠まで行って、声を掛けたが返事はなかった。書院の床下を覗いてみても風輪坊はいなかった。あの二人なら、きっと、下手人を捕まえてくれるだろう。
銭泡は庭園内を一回りして客殿に戻った。
銭泡は京にいた時、村田珠光の弟子として将軍家の所持している東山御物(ごもつ)の名画を見た事もあり、また、奈良においても珠光と共に寺院に秘蔵されている名画を見て回った。さらに、周防(すおう)の山口では明国まで行った事のある雪舟より有名な絵師たちの特徴を詳しく教わっていた。大抵の絵なら目利きする自信はあった。
「これは、夏珪(かけい)でしょう」と銭泡は答えた。
「やはり、夏珪ですか」と朝昌は満足そうに頷いた。
「わしも、そんなような気がしていたんです。やはり、夏珪でしたか」
「夏珪だったのか‥‥‥」と成高が絵を眺めながら唸った。
夏珪は南宋時代(一二〇〇年頃)の絵師で、当時の日本の画壇にも多大な影響を与えていた。夏珪、馬遠(ばえん)、牧谿(もっけい)、梁楷(りょうかい)、玉澗(ぎょくかん)などが有名で、茶の湯を嗜(たしな)む者なら皆、その位の名前は知っていた。
銭泡は朝昌と成高と共に客殿内に飾られてある絵や茶壷などを見て回り、目利きをしてやった。二人が熱心に色々な事を聞くので銭泡も喜んで教えてやった。主殿の方まで行き、飾り物を見て戻って来たが、道灌はまだ、風呂から上がっていなかった。
「道灌殿は長湯じゃのう」と朝昌は言ったが、別に気にもしていないようだ。
銭泡は気になって、鈴木兵庫助に湯殿まで行って、ちょっと見て来てくれと頼んだ。
兵庫助も少し長いような気がすると言って、仲居に案内させて湯殿に向かった。
茶室の方ではお茶会の準備が始まっていた。仲居たちがお膳を運んでいる。銭泡は縁側から眺めながら、これから始まるお茶会も、かなり贅沢なものだろうと思った。一汁三菜の質素なものではなく、二の膳、三の膳まで付いた豪華な料理が並ぶに違いない。そして、その後には華やかな宴会が始まるのだろう。
突然、女の悲鳴が聞こえた。
銭泡は嫌な予感がして、立ち上がった。悲鳴が聞こえて来たのは、確かに湯殿の方からだった。
「曲者じゃ!」と誰かが怒鳴る声がした。
銭泡は庭を見回したが怪しい人影はない。料理を運んでいる仲居が二人、立ち尽くして、悲鳴のした方を見ていた。表の方から武装した侍が五、六人、庭園を横切って湯殿の方に駈けて行った。
銭泡は上原紀三郎と顔を見合わせると湯殿の方に向かった。途中で、戻って来た兵庫助と出会った。兵庫助は二人の前に座り込むと二人を見上げ、口を動かしていたが声にはならなかった。
「どうしたんじゃ」と紀三郎が兵庫助の腕をつかみながら聞いた。
「道灌殿はどうした」と銭泡は聞いた。
「殿が、殿が‥‥‥」
「殿が、どうしたんじゃ」と紀三郎は兵庫助の体をゆすった。
「殿が、殺された」
「何じゃと‥‥‥」
紀三郎は兵庫助を突き飛ばしながら、湯殿へと飛んで行った。銭泡も後を追った。
湯殿の回りは武装した侍で囲まれていた。
紀三郎の後に従い、湯殿に入ると真っ赤に染まった湯舟の中に、首のない道灌の死体が沈んでいた。
無残な殺され方だった。
定正が駈け込んで来た。湯舟の前に立ち、死体を見下ろすと、
「誰じゃ、誰がやったんじゃ」と怒鳴り、回りにいた侍たちに、絶対に下手人(げしゅにん)を捜し出せと命じた。
侍たちは散って行った。
「どうして、こんな所で殺されるんじゃ。お茶会の準備も整ったと言うのに‥‥‥」と定正が独り言を呟いたのを銭泡は耳にしていた。
道真の言った通りになってしまった‥‥‥
道灌は何者かに殺されてしまった‥‥‥
誰が殺したのか、分からない‥‥‥
定正かもしれないが、はっきりした確信はない。もし、定正だとしても湯殿で殺されるのは知らなかったに違いない。定正は道灌が殺された時、茶室でお茶会の準備をしていた。道灌が殺されれば、お茶会は中止となる。中止となるはずのお茶会の準備を熱心にしていたとは思えない。
銭泡は湯殿の裏の祠の中に隠れていた竜仙坊の事を思い出した。祠まで行って、声を掛けたが返事はなかった。書院の床下を覗いてみても風輪坊はいなかった。あの二人なら、きっと、下手人を捕まえてくれるだろう。
銭泡は庭園内を一回りして客殿に戻った。
更新日:2011-06-05 10:45:39