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8.糟屋のお屋形

 物凄く暑い日だった。
 のんびりと馬の背に揺られながらも、汗びっしょりとなった。銭泡は道灌に連れられ、相模の国、糟屋(かすや)(伊勢原市)へと向かっていた。道灌の思った通り、万里は付いて来なかった。
 江戸城を出たのは昼過ぎだった。午前中、銭泡は万里を訪ねた。
「わしは行かんよ。この前、懲りておるからのう。おぬしも覚悟して行った方がいい。どっと疲れる事となろう。それとな、ここ、江戸の城下の事は話題にしない方がいいぞ。たちまち機嫌が悪くなるからのう。適当にお茶の道具でも誉めてやる事じゃ。決して、お屋形様の前で道灌殿の事を誉めてはいかんぞ。お屋形様が道灌殿の事をあれこれ悪く言っても黙って聞いている事じゃ」
 万里は銭泡のために色々と忠告してくれた。銭泡は万里の話を聞きながら、相当、気難しい男のようだ、道灌のために、何を言われても我慢しようと思った。
 銭泡は道灌と馬を並べ、道灌からこの辺りであった戦の話を聞きながら進んで行った。二人の前と後ろには鈴木兵庫助、上原紀三郎ら供の者たちが十二騎、従っている。武装している侍たちは汗びっしょりになりながらも回りに気を配り、道灌を守っていた。そして、一行の後ろには陰ながら道灌を守るため、竜仙坊、風輪坊らがいるはずだった。
 一行は江戸城から二里余り離れた所にある世田谷の御所に立ち寄った。
 世田谷の御所とは将軍足利家の一族である吉良左京大夫(きらさきょうのだいぶ)の事だった。関東において公方様に次ぐ家格を誇り、軍事力はそれ程ないが、関東の武将たちも一目を置く存在だった。その世田谷御所の長男である左兵衛佐成高(さひょうえのすけしげたか)は扇谷上杉定正の娘婿だった。成高も今回のお茶会に招待され、共に行く事となっていた。
 御所で一休みした一行は小机城まで行き、日はまだ高かったが、その日はそこで泊まる事となった。小机城には道灌の重臣である樋口丹波守(たんばのかみ)が城代として守っていた。
 次の朝は日中、暑すぎるため、夜明けと共に出発し、巳(み)の刻(午前十時)前には糟屋のお屋形に到着した。
 扇谷上杉定正のお屋形は大山(おおやま)の山裾の丘の上にあった。お屋形へと続く大通りに面して城下町といえる町並があるが、道真の言った通り、江戸の城下とは比べられない程、淋しいものだった。家臣である道灌が都とも呼べる所に住み、お屋形様である定正がこんな淋しい所に住んでいれば、当然のごとく、道灌を快く思うはずはない。何事も起こらなければいいが、と思いながら銭泡は城下を眺め、大通りを進んだ。
 さすがにお屋形は大きく立派だった。水を湛えた深そうな濠と高い土塁に囲まれ、門の前には武装した大男が二人、仁王のように守っている。さらに、門の左側には高い物見櫓(やぐら)があって、弓を持った兵が城下の方を見張っていた。
 銭泡は濠に架かった橋を渡りながら、竜仙坊と風輪坊の二人は道灌を守るために、このお屋形内に潜入できるのだろうかと心配した。もし、定正が道灌を殺すつもりなら、このお屋形内に閉じ込めてしまえば簡単な事だ。こちらは三十人足らず、全員を殺してしまう事もできるだろう。銭泡は自分の身にも危険が迫っているような気がして来た。
 門をくぐってお屋形内に入ると正面に大きな屋敷が二つ見えた。右側の屋敷が主殿(しゅでん)、そして、左側が侍たちの詰める遠侍(とおざむらい)のようだ。一行は馬から降りると、道灌、銭泡、吉良左兵衛佐成高の三人と供の侍四人が主殿に案内された。後の者たちは遠侍で待機という事となった。
 主殿の広間にて、お屋形様である扇谷上杉定正と型通りの挨拶をした後、客殿の方に案内された。
 上段の間に現れたお屋形様は思っていたよりも若かった。道灌よりも年上だろうと思っていたが、十歳程若い四十の半ば位だった。一見した所、それ程、気難しそうには見えない。丁度、機嫌がよかったのか、心から歓迎しているようだった。
 客殿は広い庭園に面して建てられてあった。庭園内には築山(つきやま)あり、池あり、様々な樹木や変わった形の石が並んでいた。能の舞台もあり、池の側には新築したばかりの茶室が建っていた。そして、土塁の向こうに相模平野が一望のもとに見渡せた。土塁がなければ、さぞ、いい眺めだろう。
 客殿には糟屋より北、一里程の所にある七沢城主の定正の弟、上杉刑部少輔朝昌(ぎょうぶしょうゆうともまさ)が待っていた。朝昌は定正と顔付きはよく似ているが、定正よりも大柄で、おっとりしている感じがした。道灌の顔を見ると親しそうに声を掛け、銭泡にも気さくに声を掛けて来た。
 定正は庭に降りて、さっそく、自慢の茶室を皆に見せた。定正の後ろにはドキッとする程、美しい小姓(こしょう)が従っている。定正はどうやら男色(なんしょく)を好むようだ。

更新日:2011-06-05 10:35:57

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