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1.江戸城

 強い日差しを浴びて、海がキラキラと輝き、船の回りをカモメが楽しそうに飛び回っている。
 色あせた墨衣を着た僧侶が懐かしそうに、船の上から陸の方を眺めていた。
「おう、見えて来たわ‥‥‥」
 僧侶は使いなれた杖を突き、目の上に手をかざして誰にともなく言った。嬉しくてたまらないというように始終ニコニコしている。
 僧侶の回りには商人らしき者、お伊勢参りの帰りのような旅人たち、琵琶を抱えた芸人、人買いに売られた若い娘たちがいるが、皆、僧侶と同じ方を見つめていた。一同が見つめているのは江戸城。小高い丘の上に建つ三層の静勝軒(せいしょうけん)は江戸の象徴だった。
「久し振りじゃのう‥‥‥」
「伏見屋殿」と呼ばれると僧侶は振り返った。
 頭は坊主だが腰に刀を差し、武士の格好をした貫禄のある男が近づいて来た。
「道胤(どういん)殿、懐かしいですなあ」僧侶は江戸城を見ながら、しみじみと言った。
「殿も首を長くして、お待ちかねの事でしょう」と道胤と呼ばれた男は言う。
「十年振りですよ」
「もう、そんなにも経ちますか‥‥‥」
「あのお城にお茶室を建てたのが、ついこの間の事のように思い出されます」
「筑波亭(つくばてい)ですな。あれから四畳半のお茶室が流行りまして、各地の武将たちが、あれを真似して建てました。もっとも、わしのもあれを真似たものですがな」
「珠光(じゅこう)殿もお喜びの事でしょう」
「もうすぐです」と言うと道胤は別の客の所に行き、挨拶をして回った。
 僧侶はまた江戸城の方を見て、「懐かしいのう」と感慨深げに言った。
 この僧侶、名を伏見屋銭泡(ぜんぽう)といい、禅僧であり、茶人でもあった。『佗(わ)び茶』の創始者、村田珠光の弟子だった。
 十年前、銭泡は武蔵の国(東京都、埼玉県)を旅していた。特に行く当てはなかった。その日その日の気分で、足の向くまま気の向くままに旅を続けていた。
 初めて見る関東の地は広かった。見渡す限り草原が続いている。歩いても歩いても人家が見つからない事が何度もあった。それでも、村人たちは親切で、遠くから来た旅の僧を充分に持て成してくれた。
 月日の経つのは早かった。
 武蔵の国を抜け、下総の国(千葉県北部と茨城県南西部)の香取神宮を参拝し、まるで、琵琶湖のような霞ケ浦を渡り、常陸の国(茨城県北東部)の鹿島神宮を参拝した。常陸の国を北上し、公方(くぼう)様のおられる古河(こが)の城下を見て、下野(しもつけ)の国(栃木県)に入り、白河の関まで行き、下野の国から上野(こうづけ)の国(群馬県)を回って武蔵の国に戻って来た。
 途中、何回か戦(いくさ)の場面にも遭遇したが、京での戦(応仁の乱)を経験している銭泡の目には何となく、戦ものんびりしているように思えた。土地が広いため、騎馬武者中心の戦で、河原とか広い草原で行なわれた。村々が戦の被害に会う事はまれで、京の戦のように、女子供が悲鳴を上げて逃げ惑っているという悲惨な場面はあまり目にしなかった。また、足軽などという荒くれ者たちも、まだ、いなかった。
 年の暮れ近く、武蔵の国を南下し、そのまま駿河の国(静岡県)に向かうつもりだったが、銭泡は腹をこわしてしまった。軽い食当たりだろうと我慢して歩き続けたが、下痢が続き、体中の力が抜け、とうとう道端に倒れ込んでしまった。
 これで、わしも終わりか‥‥‥
 それもいいじゃろう‥‥‥
 やりたい事はやって来た。そろそろ、家族の待つ冥土(めいど)とやらに旅立つか‥‥‥
 覚悟を決めて目を閉じた。悪運が強いのか銭泡は助けられた。
 銭泡を助けたのは越生(おごせ)に隠居していた太田備中守資長(びっちゅうのかみすけなが)の父親、太田道真(どうしん)だった。道真は越生の龍穏寺(りゅうおんじ)の側に自得軒(じとくけん)という隠居所を建て、頭を丸めて隠居していた。すでに、六十歳を越えた老人だった。
 銭泡は自得軒の客間で目を覚まし、初めて、道真を見た時、どこかの僧に助けられたと思い、思わず合掌をした。しかし、僧侶でない事はすぐに分かった。
 道真の住んでいる隠居所は武家屋敷の作りで、家来も大勢おり、道真は若い側室(そくしつ)に囲まれて風雅に暮らしていた。隠居する前は、かなり有力な武士だったに違いないと思ったが、その正体は分からなかった。
 銭泡が道真の正体を知ったのは正月の事だった。ひっそりとしていた自得軒が、年が明けると様々な人が挨拶に訪れて来た。そのほとんどが立派な身なりをした武士だった。武士たちの話から道真と名乗る老人が、もと扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の執事(しつじ)で、歌人としても有名な太田左衛門大夫(さえもんのだいぶ)だったという事を知った。道真が河越城に連歌師の心敬(しんけい)、宗祇(そうぎ)らを招いて、『河越千句』の連歌会を催したという事は銭泡も噂に聞いて知っていた。

更新日:2011-06-04 17:14:52

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