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6.お志乃

 江戸に来て、一月余りが過ぎた。
 銭泡は道灌が十年間の間に集めたお茶道具の鑑定をしたり、道灌の家臣たちのお茶会に出掛けたり、万里と一緒に浅草にお参りに出掛けたり、道灌と船遊びをしたり、毎日、楽しく暮らしていた。
 十年間に道灌が収集したお茶道具は物凄かった。まさに、銭に糸目を付けずに集めたもので、特に唐物(からもの)の絵画に関しては驚くべきものがあった。
 応仁の乱で京都の大寺院がほとんど焼け、数々の名画も焼けてしまった。また、どさくさに紛れて盗まれ、行方知れずになった物も多い。そんな名画の何点かを道灌が持っていたのだった。どういう経路で手に入れたのかは分からないが、それらの名画が昔のままの姿で江戸城にあったのは、銭泡としては嬉しい事だった。中には、噂だけは聞いていたが、目にした事のなかった名画を見る事ができたのは感激だった。
 七夕の日、静勝軒では盛大な花会が行なわれた。また、城下のあちこちでも町人たちによる花会が行なわれ、城下全体が祭りのように賑やかだった。
 花会とは自慢の花瓶に花を立てて競う娯楽で、立て花と呼ばれ、華道の原点と言えるものだった。静勝軒では飾られた花の中で歌合わせが行なわれ、道灌の家臣たちや城下に住む歌人たちが歌を競い合った。城下の花会では、飾られた花の中で闘茶(とうちゃ)が行なわれていた。
 闘茶とは何種類かのお茶を飲み、その種類を当てるという賭博(とばく)的要素を持った娯楽だった。様々な景品も用意され、闘茶の後は決まって宴会となった。当時、庶民たちから武士や公家、僧侶に至るまで、それぞれに闘茶を楽しんでいた。
 銭泡は道灌から静勝軒での花会の奉行(ぶぎょう)に任命され、出品する花瓶の選別をしたり、立て花の指導に当たったり、七月に入ってからは何かと忙しかった。
 七夕の花会も好評のうちに終わった。
 後片付けも済んだ次の日の午後、銭泡は泊船亭から海を眺めながら、これからの事を考えていた。いつまでも、道灌に甘えてばかりもいられない。銭泡がここに滞在中にも、遠くから江戸城を訪ねて来る歌人や詩人は多かった。銭泡が泊船亭に滞在しているため、彼らは城下の旅籠屋に泊まっている。四部屋もある泊船亭を一人で占領しているのは何だか悪い気がしていた。
 道灌は気兼ねなく、好きなだけいればいいと言ってくれるが、そう、いつまでも甘えてもいられない。また、これから、どこに行くという当てもない。万里もここに住んでいる事だし、二、三年、ここに腰を落ち着けようかとも思っていた。腰を落ち着けるとなれば、城下のどこかに家を借りた方がいいだろう。鈴木道胤に相談してみようと思った。
 さっそく、銭泡は万里を連れて城下にある道胤の旅籠屋『紀州屋』を訪ねた。生憎と道胤はいなかった。品川の方に帰っているという。二、三日したら江戸に来るだろうとの事だった。
「残念じゃったのう」と万里が言った。
「二、三日待つさ」と銭泡は笑った。
 二人は『紀州屋』を出ると湊の方に歩いた。
「前から不思議に思っておったんじゃがのう」と万里が言った。
「道胤殿の屋号はどうして紀州屋なんじゃ。本拠地は品川なんじゃろう」
「わしも詳しい事は知らんが、先祖は紀州から来たらしいのう」
「ほう。それで、紀州屋か」
「うむ。何でも熊野の水軍じゃったらしい」
「なに、熊野の水軍?」
「ああ。道胤殿の何代か前の先祖が鎌倉の公方様に呼ばれて、関東の地に来て商人となったんじゃ。道胤殿の一族は関東のあちこちの湊におって、その頭領が道胤殿じゃ。道胤殿は若い頃より、当時、品川におられた道灌殿に仕えたらしい」
「成程のう。熊野の水軍の出か‥‥‥そうか、それで、道灌殿の奥方様は熊野に行かれたんじゃな」
「多分、そうじゃろう。熊野の方にも道胤殿の一族がおられるに違いない」
「熊野の水軍か‥‥‥この地は面白いのう。色々な所から来た者が集まっておるのう」
「まさしく」
「どうじゃ、たまには遊んで行かんか」と万里が足を止めた。
 湊に行く途中だった。大通りの右側は歓楽街になっていた。十年前は、こんな町はなかった。遊女屋がなかった訳ではないが、二軒か三軒、草むらの中に建っていただけだった。それが今は八幡様の参道の両脇にびっしりと遊女屋、茶屋、飲屋、料理屋、湯屋やらが並んでいる。暗くなれば化粧した女たちが辻に立って客引きもしていた。
「まだ、日が高いぞ」と銭泡は笑った。
「なに、今頃が静かでいいんじゃ」
「この前の店に行くのか」
「いや、別の店じゃ」
 万里はニヤニヤしながら歓楽街の方に歩いて行った。
「おぬしも大分、遊んでおるようじゃのう」
「ここに来て、もう半年以上じゃ。色々と付き合いというものがあってのう。お小夜には内緒じゃぞ」
「分かっておるわ」

更新日:2011-06-05 09:08:13

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