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4.越生の自得軒

 江戸城から九里程北西の所に河越城がある。太田道灌の主君である扇谷(おおぎがやつ)上杉修理大夫定正(しゅりのだいぶさだまさ)の居城だった。
 江戸城も河越城も三十年程前に、道灌と父の道真によって、当時、敵対していた古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)に対抗するために建てられた城だった。
 享徳三年(一四五四年)に始まった関東の争乱は三十年にも及んだ。四年前にようやく、古河公方と関東管領(かんれい)の上杉氏は和睦し、一応、今は戦は治まっていた。
 公方とは幕府が関東の地を治めるために置いた出先機関で、元々は鎌倉にいて鎌倉公方と呼ばれていた。関東管領とは、その鎌倉公方の執事(しつじ)役だった。公方と管領が対立して争いを始めたため、関東一円が戦に巻き込まれた。公方は鎌倉を追い出され、下総の古河を本拠地にして管領に対抗した。以後、公方は二度と鎌倉に戻れず、古河公方と呼ばれるようになった。
 上杉氏には山内(やまのうち)上杉氏と扇谷上杉氏があり、代々、管領職(かんれいしき)に就いていたのは山内上杉氏だった。山内上杉氏は上野(こうづけ)の国と武蔵の国の守護職(しゅごしき)を持ち、扇谷上杉氏は相模の国の守護職を持っている。山内上杉氏と扇谷上杉氏の勢力差はかなりあり、扇谷上杉氏は常に山内上杉氏の下に立っていた。
 また、越後にも上杉氏はいた。今の管領職に就いている顕定(あきさだ)は越後の上杉相模守房定(さがみのかみふささだ)の次男だった。管領が越後から来たため、越後の兵もかなり関東の地に来ていて、戦でも活躍している。今も、顕定の兄である左馬助定昌(さまのすけさだまさ)は上野の国の白井(しろい)城(群馬県子持村)に腰を落ち着け、関東を睨んでいた。
 関東管領は上杉顕定だったが、実際は、その父親である越後の上杉房定が実力を持って関東を治めているといってもよかった。
 太田道灌は扇谷上杉氏の執事だった。道灌の活躍により、扇谷上杉氏の勢力は着々と伸びて行った。関東の武士はもとより道灌の活躍は京の都にまで聞こえている。
 河越城は扇谷上杉氏の本拠地として修理大夫定正が守っていたが、戦も治まったため、定正は相模の国の糟屋(かすや)に屋敷を新築して、三年前から移っていた。河越城の守備は道灌に任され、今、道灌の重臣である川名辺越前守が城代として入っている。
 その河越城から五里程西に行った所に越生(おごせ)という所がある。山に囲まれた小さな町で、戦死した将兵の霊を慰めるため、将軍の命で建てられた曹洞(そうとう)宗の禅寺、龍穏寺(りゅうおんじ)がある。その龍穏寺の側に道灌の父親、道真の隠居所である自得軒(じとくけん)はあった。
 伏見屋銭泡と漆桶万里は道灌に連れられて、自得軒に来ていた。
 越生の町も十年前より賑やかになっていた。以前、樹木が生い茂っていた所が切り開かれ、家々が建ち並んでいる。中には公家風の屋敷もあった。
 銭泡は道真に歓迎された。道真はもう八十歳近いはずなのに相変わらず元気だった。若くて美しい側室に囲まれて、浮世離れした生活を送っていた。
 道真は一行を正式なお茶会で持て成した。茶室も庭園内に建てられてあった。やはり、江戸城の筑波亭を真似した四畳半茶室だった。
 蒸し暑い日だった。
 道真はまず、風呂で一行を持て成し、さっぱりした所で茶室に案内して、一汁三菜の会席で持て成した。珍しい物はないが、季節を感じさせる料理が、それに合った器に盛られてあった。酒を軽く飲みながら茶道具の事をあれこれ話した後、中立ちして、道真の振る舞うお茶を飲んだ。
 お茶会が終わると今度は屋敷の方に戻って宴会が始まった。道真を慕って越生に来ている公家衆や隠居した武士たちが集まり、賑やかな宴会になった。どこから連れて来たのか、遊女たちや芸人たちも数人混ざっていた。
 道灌は次の日に帰って行ったが、銭泡と万里は十日間、道真のもとに滞在した。
 滞在中、お茶好き、歌好き、漢詩好き、ただの酒好きの連中が訪ねて来て、毎日のようにお茶会、連歌会、聯詩(れんし)会、和漢連句会、宴会などが行なわれた。
 銭泡と万里は庭の片隅に建てられた二間続きの離れに滞在した。十年前にはなかったが、客人を持て成すために建てたものらしい。
 万里が龍穏寺の和尚のもとに出掛けている時だった。銭泡は部屋の中で、道真が新しく手に入れた茶道具の鑑定をしていた。道真がのっそりと現れ、縁側に腰を下ろした。
「どうじゃな、名物はあるかね」と道真は聞いた。
「はい。結構、値打物がございます」
「そうか、そいつはよかった」
 よかったと道真は言ったが、茶道具を見てはいない。扇子を扇ぎながら庭の方をぼうっと眺めていた。

更新日:2011-06-05 08:40:55

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