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月陰党

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 善太夫の一周忌の二日前、三郎右衛門は草津の光泉寺で住職の玄英(げんえい)と法要の打ち合わせをしていた。そこに慌ただしく駈け込んで来たのは弟の小五郎だった。
 小五郎は今年の春から善太夫の湯宿を継いでいた。代々、湯本本家の湯宿の主人は善太夫を名乗っていたが、宿屋の主人が先代のお屋形様の名を継ぐのは憚られるので、白根明神の長老と相談して、金太夫と名乗る事となった。
「兄上、大変でございます」と金太夫は息を切らせ、額の汗を拭きながら言った。
「何を慌てているんだ。まさか、武田のお屋形様が来られたわけではあるまい」
 三郎右衛門が冗談を言うと玄英は和やかに笑った。
「それが、小野屋の女将さんがお見えになられたのでございます」
「ほう、やはり来られたか。来られると思っていた。別に驚く事でもあるまい」
「そうじゃないんです。女将さん、出家しちゃったんですよ」
「なに、出家した?」
 三郎右衛門は口を開けたまま、金太夫の顔をじっと見つめていた。あの女将が出家するなんて思いもしなかったので、確かに驚きだった。しかし、善太夫と女将の関係を思えば当然の事のようにも思えた。
「尼さんの格好でいらっしゃって、本当に驚きましたよ」と金太夫は言っていた。
「そうか‥‥‥出家したのか‥‥‥」と三郎右衛門は独り言のように呟いた。
「そして、お年寄りのお客様と御一緒です。幻庵様と言えばわかると言っておりましたが」
「なに、幻庵様だと。馬鹿者、なぜ、それを早く言わんのだ」
 三郎右衛門は玄英に急用ができた事を告げ、金太夫と共に薬師堂の方へと向かった。
「兄上、幻庵様って誰なのです」
 慌てている三郎右衛門を見ながら、金太夫は不思議そうに聞いた。金太夫が見た所、幻庵と名乗った老人は小田原の商人の御隠居といった風だった。
 三郎右衛門は辺りを見回し、人がいないのを確認してから、金太夫の耳元で、「北条家の長老様だ」と囁いた。
「えっ」と金太夫は間の抜けた顔をして三郎右衛門を見た。
「まさか、草津まで来られるとは‥‥‥こいつは大変な事になったぞ」
 しっかりしろと言うように三郎右衛門は金太夫の背中を叩いた。
「お忍びだと言っておりました」
「そうか。そうだろうな。そうでなくては困る。まったく、女将も急に、とんだお客様を連れて来られたもんだ。金太夫、一番上等な部屋は空いているだろうな」
「それが」と言って金太夫は困ったような顔をした。
「小諸の武田左馬助殿の紹介されたお客様の一行が泊まっておられます」
「おお、そうだった」
 武田左馬助は武田のお屋形様の従弟だった。長篠の合戦の後、お屋形様の右腕として活躍し、武田家中でも重きをなしていた。その左馬助の紹介で小諸城下の裕福な商人たちが今、金太夫の湯宿に滞在していた。
「今更、追い出すわけには‥‥‥」
「そいつはまずい」
「それで、慌てて参ったのでございます」
「うむ、何とかしなくてはならんな。今はどこにおられるんだ」
「幻庵様ともう一人のお客様はさっそく、滝の湯に入っておられます。お供の方々は宿屋の庭で馬の世話などをしておりますが、小野屋の女将さんは取りあえず、お屋形の方に御案内いたしました」
「そうか。お前は光太夫と安太夫の所に行って、上等な部屋が空いているか見て来い。湯本家にとって大切なお客様が来られたと言ってな」
「わかりました」とうなづくと金太夫は石段を駈け下りて行った。
 光太夫の宿屋は三郎右衛門が生まれた生須湯本家が経営し、安太夫の宿屋は左京進の沼尾湯本家が経営している宿屋だった。本家の小雨湯本家、分家の沼尾湯本家と生須湯本家は湯本三家と言われ、その三家の湯本家が経営する宿屋は格式が高く、主に武将たちが利用していた。
 女将の待つお屋形に帰ろうと石段を下りた三郎右衛門はふと立ち止まり、石段の脇に咲いているシャクナゲの花を見つめた。海野能登守より武田家の重臣や北条家の重臣が草津に来られた時は一応、知らせてくれと言われていたのを思い出した。幻庵が来た事を知らせた方がいいのだろうかと考えた。知らせれば、能登守が挨拶に来て大騒ぎになるに違いない。幻庵はそういう事を嫌うだろうし、お忍びだというのだから知らせない方がいいだろうと結論を出して石段を駈け下りた。

更新日:2011-06-02 13:58:19

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