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上泉伊勢守

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 船が伊豆半島を越えると、目の前に富士の山が見えて来た。
 雪をかぶった富士山は神々しい程に眩しかった。三郎はしばし、その美しさに見とれた。
「三郎、あそこに登ってみるか」と東光坊が横に来て聞いた。
「えっ、登れるんですか」
「登れん山はない。だが、今の時期は難しい。頂上は大雪じゃからな、夏まで待つしかない」
「登ってみたいです」
「うむ。だがな、富士山は登るよりも遠くから眺めていた方がいいかもしれん。山の中に入ってしまうとあの美しさはわからなくなる」
 三郎は富士山の華麗な姿を見つめながらも、浅香の事を思っていた。浅香にも富士山を見せてやりたいと思っていた。
 予定では江尻津(清水港)まで船で行くつもりだったが、沼津で降りる事にした。一気に船で行くよりも、富士山を眺めながら歩きたかった。
 駿河の国(静岡県中東部)は今川家の領国で、今、今川と北条と甲斐(山梨県)の武田は同盟を結んでいた。草津の湯本家は武田に属しているので、ここも味方の国だった。
 右手に富士山、左手に海を眺めながら、二人は駿河の都、駿府(静岡市)へと向かった。
 今川家のお屋形様(氏真)がいる駿府も小田原に負けない程、賑やかな都だった。小田原の城下ではあまり見られないお公家さんたちも多く住み、何となく雅な雰囲気があった。
「どうじゃ、琴音殿の事は忘れられたか」
 浅間(せんげん)様の門前にある宿坊に着いた時、東光坊はそう聞いた。
「琴音?」
 浅香に会ってから、琴音の事はすっかり忘れていた。
「忘れたらしいな、よかった、よかった」
「でも、浅香の事は忘れられません」
「ほう、今度は浅香か。お前も結構、浮気者じゃな」
「そんな、違いますよ」三郎はむきになって否定した。
 東光坊は笑いながら、「どうじゃ、浅香を忘れるために、今度は駿河の女子でも抱いてみるか」とからかった。
「浅香のような女は滅多にいません」
「まあ、そうじゃろうの。あれだけ高級な遊女は滅多におらん。お前、揚げ代がいくらだったか知ってるか」
「そんなの知りません」
「わしらにはとても払えん程、高価じゃ。わしがお屋形様から預かって来た一年分の銭でも足らんのじゃ。小野屋の女将さんに感謝して、浅香の事は夢だったと諦める事じゃ」
「いやだ、俺は諦めない。琴音を諦めて、浅香まで諦めろと言うのか」
「しょうがないんじゃ。どうしても諦めきれなかったら、お前がお屋形様になった時、迎えに行ってやる事じゃな。身請けするにも莫大な銭が掛かるが、お屋形様になればできない事もあるまい」
「俺は諦めない。浅香を絶対に草津に呼んでやる」
「呼んでどうする?」
「妻にする」
「ほう、それもいいじゃろう。まあ、頑張れ」東光坊は三郎を見ながら鼻で笑った。
 三郎はブスッとした顔をして、東光坊を睨んでいた。
 駿府では遊女屋にもよらず、大井川を渡って遠江(とおとうみ)の国(静岡県西部)に入った。ここも今川の領国だった。
 遠江の国を抜けると三河の国(愛知県中東部)だった。三河は徳川家の領国で、徳川家は美濃(岐阜県中南部)と尾張(愛知県西部)を領する織田家と同盟を結んでいた。そして、武田家と織田家も同盟を結んでいるので、ここも味方の国と言えた。三河、尾張と抜け、二人は伊勢の国(三重県北部)に入った。
 伊勢には北畠氏がいた。北畠氏は武田家にとって利害関係はなかった。敵でも味方でもなく、二人は飯縄山の行者として、伊勢神宮を参拝した後、大和の国(奈良県)へと向かった。
 のんびりと歩いて来たので、吉野に着いたのは桜が咲き誇る三月の初めになっていた。
「いいか、覚悟しておけよ」と蔵王堂に参詣した後、東光坊はいつになく厳しい顔をして三郎に言った。「大峯の奥駈けは非常につらい修行じゃ。いつまでも、女の事をくよくよ考えている奴には勤まらんぞ。ついて来られないようなら山の中に置いて行くからな」

更新日:2011-06-01 14:10:58

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