• 87 / 315 ページ

本泉寺

          1



 風眼坊は蓮如、お雪、十郎を連れて山の中を歩いていた。
 山のあちこちに萩の花が咲き、ツクツク法師が鳴いている。
 もう、秋になっていた。
 戦のけりは、まだ着いていなかった。
 この前、一行が松岡寺(しょうこうじ)に出掛けたのは一月程前の事だった。
 風眼坊たちは戦の負傷者たちの手当に忙しく働き、八月の初めに吉崎に戻って来た。およそ、一月の間、吉崎を留守にしていたわけだったが、慶聞坊が、上人様は今、松岡寺にいると連絡してくれたので、家族たちも吉崎を守っていた近江の坊主たちも、蓮如がいない事を知っていながら、蓮如がいるという風に装っていたため、何事も起こらなかった。
 ただ、毎月恒例の二十五日の講の日は、戦に出ていない年寄りや女子供の門徒たちが吉崎に集まって来たため、今更、講を取りやめにする事もできず、上人様は戦が始まってから、ずっと、門徒たちの身を案じて、本堂に籠もり、念仏を上げておられる。上人様の邪魔をするわけにはいかんと言って、代わりに、近江から来ている赤野井の慶乗坊(きょうじょうぼう)が説教をした。
 その日、集まって来た門徒たちは皆、本堂から聞こえて来る念仏に耳を澄まし、合掌してから帰って行った。その時、本堂にいたのは勿論、蓮如ではない。吉崎を守っている門徒の中から、後ろ姿が蓮如に似ている者と声が蓮如に似ている者を選び、本堂を閉め切り、立ち入り禁止にして、後ろ姿の似ている者を座らせ、声の似ている者を内陣の中に隠して、念仏を唱えさせたのだった。
 風眼坊たちは出て行く時と同じように、抜け穴から御坊へと戻って行った。そして、小屋の中で元の姿に着替えると、何事もなかったかのように、庭園から、それぞれがここを出て行く前にいた場所へと戻って行った。
 吉崎の地にも敵は攻めて来ていた。しかし、それ程の大軍ではなかった。慶覚坊によって寺院を破壊され、追い出された高田派の坊主や門徒たちと越前の高田派門徒とが、吉崎を睨みながら陣を敷いていたが、一千人にも充たず、ただ見張っているという感じで、強いて攻撃はして来なかった。高田派門徒としては本蓮寺や松岡寺などより、この吉崎御坊を落としたいと願っているのだが、今の状況では、蓮台寺城から、ここまで出陣して来るのは不可能だった。
 敵と対峙しているとはいえ、吉崎の地は、まだ平和といえた。
 風眼坊らにとって、その比較的平和な吉崎御坊での退屈な日々が一月近く続いた。
 その退屈な日々に最初に文句を言ったのは、お雪だった。
 お雪は本蓮寺での負傷者の治療以来、風眼坊の事を先生と呼んでいた。吉崎に戻って来て、まだ十日と経たないうちに、先生、また、前線に行きましょう、と言い出した。風眼坊が、もう少し待て、と言っても、お雪は風眼坊の顔を見るたびに、早く行こう、とせきたてた。風眼坊は、上人様に言え、と言った。お雪は蓮如には言えなかったようだった。
 その上人様も御文を書いたり、念仏を唱えたり、毎日、判で押したような暮らしをしていたが、とうとう九月になると我慢できなくなったのか、風眼坊を呼んでニャッと笑うと、「そろそろ、逃げるかのう」と小声で言った。
「今度は、どこに行きますか」と風眼坊もニヤニヤしながら聞いた。
「そうじゃのう。今度は蓮乗の所でも行くかのう」
「本泉寺ですか」
「うむ」と蓮如は嬉しそうに頷いた。
「ちょっと、遠いのう」と風眼坊は少し考えた。
 蓮如は風眼坊の顔色を窺いながら、「無理かのう」と聞いた。
「いえ、山の中を通って行けば、戦場を通らずに行けるでしょう」
「そうか‥‥‥お雪殿はどうかのう、付いて来るかのう」
「来るなと言っても来るでしょう。わしの顔を見るたびに、ここから出ようと言って、うるさい位じゃ」
「おお、そうじゃったのか。お雪殿も早く、ここから出たかったのか‥‥‥そうか、そうか。十郎はどうじゃ」
「十郎だって喜んで付いて来ますよ」
 話が決まると早かった。
 蓮如が風眼坊に、ここから逃げようと言ってから、一時(二時間)も経たないうちに、一行は船に乗って大聖寺川をさかのぼっていた。
 合戦の方はというと、七月二十六日から三日間続いた決戦の後、八月五日に軽海の守護所が落城していた。北加賀の敵の要所を次々に落として来た河北郡の門徒たちが、軽海の守護所の包囲戦に加わると、大した攻撃もせずに、守護所は簡単に落ちてしまった。
 守護所を守っていた狩野伊賀入道は五千人程の兵を引き連れて蓮台寺城へと落ちて行き、一千人余りの敵兵は降伏した。降伏した者たちは武装を解かれ、とりあえず浄徳寺へと送られた。
 ほとんど破壊されずに落ちた守護所には、富樫次郎がおよそ二年振りに守護として納まり、次郎勢と越前門徒、一万人余りの兵は軽海に本陣を移し、蓮台寺城と対峙した。

更新日:2011-05-23 09:13:00

  • Twitter
  • LINE
  • Facebook