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海 マラソン 初恋

 馴染めない大学にどうしても行く気がせず、適当に乗り継いだ電車の窓から見えてきたのは海だった。
 通路を挟んだ向かいの席で男がシャッターを切っている。カシャ、カシャ、と切り取れないはずのものを切り取っているような音が車内に響く音を聞いて、いっそ紙くずにでもなりたいと考える。そんなことを考えながらでも自然に海に着いたのはやはり嬉しく、思わず頬がゆるむ。紙くずになるのは延期だ。

 聞いたことのない小さな駅前のロータリーにはバスが何台か止まっていた。ここでは移動にバスを使うのが有効なのだろう。貼り出されている停留所一覧を見てみたが、やっぱり聞いたことのない地名ばかりで、一番空いているバスに乗ることにした。
 適当なところで降りると、またしても聞いたことのない芸術家の美術館前だった。こんにちは、とおとなしそうな受付に荷物を預け一通り見て回ると、話し声が聞こえてきた。こんな所までわざわざ見に来る人がいるのかと振り返ってみると、テレビだった。画面には照れくさそうに笑いながらインタビューに答える女の子が映し出されている。館内の作品を作ったのはどうやら彼女らしい。思ったよりも若いことに驚きながら見てみるも、インタビュアーが下手なのか芸術家とは名ばかりの薄い人間性しか感じられなかった。
 入館料の半分でいいから返してほしいと思いながら何も言わず荷物を受け取る。受付の後ろには彼女のモノクロ写真が飾られていた。全面に柄がプリントされたタンクトップに足にフィットするジーンズを履いて、こちらにつむじを向けている。彼女の黒髪の美しさと、陶器のように白い首筋から骨ばった肩までのラインに、背筋がぞわりと粟立つ。
「この写真」
 意識せずに言葉を発していた自分に驚き、口ごもる。なにか?と覗き込まれる視線に押されるように、
「あの、もらえま、せんかね?」
 しどろもどろになってしまったにも関わらず、すみませんこちらは展示用の写真ですので、と丁寧に頭を下げた受付と、彼女のつむじが重なった。

 何で大学に入ってまでこんな走らなきゃならないんだ。
 恐らく並んで走っているやつらも同じことを思っているだろう。遅れてきた生徒のえ、今日マラソンっすか、といういかにもな声に内心舌打ちしながらたらたらと地面を蹴る。その声につられたのか、走っている生徒たちもぼそぼそと話し始めた。
 昨日の合コンいまいちだったよなー
 レポート書いた?
 あの授業超だるいんだけど
 あれ提出期限いつだっけ?
 その内容と、早くも息切れしてきた体にため息をつく。周りの話し声のせいか、初恋の相手はどんな人でしたか?とテレビ用の高い女性の声が頭に響いた。
「小学校の朝のマラソンの時、足が遅い私に合わせて一緒に走ってくれた男の子です」
 小学生にしては随分マセたことをするやつだ。彼女の顔はもう覚えていないけれど、心を震わせるような顔でなかったことは確かだった。正直今は彼女を思い出すことよりも、こうして大学に戻ってきてしまった自分にうんざりする方が忙しい。前を走ってるやつらの背中を見てなにもかも消したい衝動に駆られるが、そんなことができないことぐらいわかっている。矛盾した思いに板ばさみされて、気がつくとその場で立ち止まっていた。

「お前俺をなめてるのか?そうだな?」
 文字通り青筋が浮いた男が腰に手を当てて唾を飛ばしてくる。体育教師という肩書きにふさわしい筋肉のついた体は、小柄なせいかなにも感じさせない。聞いてるのか、と一際大きい怒鳴り声が響いて、背中に向けられている視線が一層深く刺さった。
「返事もできないのか」
 今度は小さな声で囁くように。あぁ、この人怒り慣れてるんだ。返事をしないでいると、男は横に置いたカゴから記録用紙を何枚か取り出し、めくりながら名前を確認した。と次の瞬間、紙を破く音が耳に飛び込んできた。顔を真っ赤にさせて憎々しげに紙を破ける人間なんてそうそういないんじゃないか。そんなことを思いながら、丸めた紙をくしゃくしゃにしている男のつむじが見えた時には遅かった。
 縦に真っ二つに引き裂かれ、今度は横に。四つにされた体を丸められ、また二つに割られる。あぁ、違う、お前じゃなくて、と声にならず唇に触れてみるも、指先が触れたのはどこか別の部分だった。

更新日:2009-02-19 15:15:01

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