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五ケ所浦
1
秋晴れの空に、ポッカリと白い雲が一つ浮かんでいる。
入り組んだ入江の中、海は穏やかだった。
今、熊野からの商船が入って来たばかりで港は賑わっていた。
人々が忙しそうに動き回っている。船からの積み荷が降ろされ、そして、別の荷物が船の中に運ばれていた。船から降りた客たちはあたりを見回しながら、連れの者と話を交わし、城下町の方へと流れて行った。
五ケ所浦の城主、愛洲伊勢守(いせのかみ)忠行の城は城下町を見下ろす丘陵の上に建っていた。のちに言う本丸に相当する詰の城が丘の頂上にあり、北方と西方は五ケ所川の断崖に接し、東は断層をなし、濠をめぐらし、南が大手門となっている。居館は丘の中腹にあり、城全体を守るように深い外濠がめぐらされてあった。
その城の北には浅間権現を祠る浅間山があり、東には馬山があり、北西にはアカガキリマと呼ばれる山々が連なり、五ケ所浦を守っていた。
城下町は城の大手門に続く大通りと海岸沿いに走る街道、港から五ケ所川に沿って伊勢神宮へと続く街道を中心に栄えていた。城の周辺には武家屋敷が並び、港の周辺には宿坊や蔵が並び、市場もあった。
水軍の大将、愛洲隼人正宗忠の城は五ケ所浦の城下から南に二里程離れた田曽浦にあり、田曽岬の砦から海を睨み、五ケ所浦の入り口を押えていた。太郎もその城で生まれたが、今はそこにはいない。隠居した祖父、白峰と共に五ケ所浦の城下町にある屋敷で暮らしていた。白峰の屋敷は城下の東のはずれにあった。志摩の国へと続く街道に面していて浜辺の側だった。
五ケ所浦は比較的、平和だった。何度か、暴風雨には見舞われたが、京や奈良のように飢饉に襲われ、一揆に悩まされるという事はなかった。
京ではようやく、寛正の大飢饉は治まった。それでも相変わらず、土一揆がひんぱんに起こり、河内の国(大阪府南東部)では、未だに畠山氏が合戦を繰り返している。
ここ、五ケ所浦で太郎は平和に暮らしていた。
「えい!」
「やあ!」
太郎は同い年の大助と浜辺で剣術の稽古をしていた。
大助は船越城を守る愛洲主水正(もんどのしょう)行成の息子である。太郎が水軍の大将の伜で、大助は陸軍の騎馬武者の大将の伜だった。後の愛洲氏を背負って立つ二人であるが、今はまだ、そんな事は知らない。毎日、仲間たちと一緒に海や野を走り回って遊んでいた。
今も、水軍の子供達と陸軍の子供達が、どっちが強いかという事で言い争いになり、それでは一騎打ちをやろうという事になった。水軍からは太郎、陸軍からは大助が選ばれ、戦さながらに、「我こそは、誰々‥‥‥」と叫び、木の棒を構えている。
他の子供たちは二手に別れ、ワイワイはやしたてながら眺めていた。
太郎は祖父、白峰より剣術、槍術、馬術、弓術を教わり、かなり上達していた。しかし、まだ十一歳の子供である。毎日、武術の稽古はしているが遊びの方が忙しい。まだ、それ程、真剣にやっていたわけではなかった。
秋晴れの空に、ポッカリと白い雲が一つ浮かんでいる。
入り組んだ入江の中、海は穏やかだった。
今、熊野からの商船が入って来たばかりで港は賑わっていた。
人々が忙しそうに動き回っている。船からの積み荷が降ろされ、そして、別の荷物が船の中に運ばれていた。船から降りた客たちはあたりを見回しながら、連れの者と話を交わし、城下町の方へと流れて行った。
五ケ所浦の城主、愛洲伊勢守(いせのかみ)忠行の城は城下町を見下ろす丘陵の上に建っていた。のちに言う本丸に相当する詰の城が丘の頂上にあり、北方と西方は五ケ所川の断崖に接し、東は断層をなし、濠をめぐらし、南が大手門となっている。居館は丘の中腹にあり、城全体を守るように深い外濠がめぐらされてあった。
その城の北には浅間権現を祠る浅間山があり、東には馬山があり、北西にはアカガキリマと呼ばれる山々が連なり、五ケ所浦を守っていた。
城下町は城の大手門に続く大通りと海岸沿いに走る街道、港から五ケ所川に沿って伊勢神宮へと続く街道を中心に栄えていた。城の周辺には武家屋敷が並び、港の周辺には宿坊や蔵が並び、市場もあった。
水軍の大将、愛洲隼人正宗忠の城は五ケ所浦の城下から南に二里程離れた田曽浦にあり、田曽岬の砦から海を睨み、五ケ所浦の入り口を押えていた。太郎もその城で生まれたが、今はそこにはいない。隠居した祖父、白峰と共に五ケ所浦の城下町にある屋敷で暮らしていた。白峰の屋敷は城下の東のはずれにあった。志摩の国へと続く街道に面していて浜辺の側だった。
五ケ所浦は比較的、平和だった。何度か、暴風雨には見舞われたが、京や奈良のように飢饉に襲われ、一揆に悩まされるという事はなかった。
京ではようやく、寛正の大飢饉は治まった。それでも相変わらず、土一揆がひんぱんに起こり、河内の国(大阪府南東部)では、未だに畠山氏が合戦を繰り返している。
ここ、五ケ所浦で太郎は平和に暮らしていた。
「えい!」
「やあ!」
太郎は同い年の大助と浜辺で剣術の稽古をしていた。
大助は船越城を守る愛洲主水正(もんどのしょう)行成の息子である。太郎が水軍の大将の伜で、大助は陸軍の騎馬武者の大将の伜だった。後の愛洲氏を背負って立つ二人であるが、今はまだ、そんな事は知らない。毎日、仲間たちと一緒に海や野を走り回って遊んでいた。
今も、水軍の子供達と陸軍の子供達が、どっちが強いかという事で言い争いになり、それでは一騎打ちをやろうという事になった。水軍からは太郎、陸軍からは大助が選ばれ、戦さながらに、「我こそは、誰々‥‥‥」と叫び、木の棒を構えている。
他の子供たちは二手に別れ、ワイワイはやしたてながら眺めていた。
太郎は祖父、白峰より剣術、槍術、馬術、弓術を教わり、かなり上達していた。しかし、まだ十一歳の子供である。毎日、武術の稽古はしているが遊びの方が忙しい。まだ、それ程、真剣にやっていたわけではなかった。
更新日:2011-05-16 10:23:26